第4話 先生の過去

 次の日、学校に行って真っ先に職員室に向かった。これからホームルームがあるけれど知ったことじゃない。

 それに、ホームルームの間、海老名先生は職員室にいるはずだ。どこかのクラスの担任だとか副担任ではないみたいだから。

 職員室のドアを開けると、中にはほとんど人がいなくてがらんとしている。だから、海老名先生がそこにいるのがひと目でわかった。

「海老名先生!」

 俺が名前を呼んで早足で近寄ると、海老名先生はきょとんとした顔で俺を見る。

「どうしたんですか東大島君。ホームルームの時間のはずですが」

「ホームルームなんかより、大事な話があるんです」

 多分、今俺はすごく怒ってる顔をしてると思う。だからだろうか、海老名先生は真面目な顔になって俺をじっと見る。

「話を聞きましょう」

 拳を握りしめて、震える声で海老名先生に訊ねる。

「昨日、俺が作った折り本が素敵だって言ったのは、お世辞ですよね?」

 すると海老名先生は、俺をじっと見たままこう返した。

「私があなたにお世辞を言って、なにか得をすることでもあるのでしょうか」

「だって、父さんは先生が褒めてくれたのはお世辞だって言って、それで……」

 言いたいことはいっぱいあるのに言葉にならない。そんな俺のことを、海老名先生はまだじっと見ている。

 しばらくお互い黙り込んで、すこしだけ落ち着いてきた。それを見計らってか、海老名先生がこう言ってきた。

「もし差し支えがなければ、そのことを詳しく聞かせてくれませんか?」

 海老名先生の優しい声に、俺はようやく、父さんに折り本をバカにされたことを話せた。上手くまとまらない話を海老名先生は何度も頷きながら聞いてくれて、俺のことを否定したりせずに、でも、すこしだけ悲しそうな顔をした。

「東大島君」

「……はい」

「親が子供のことを貶してしまうのは、よくあることです」

 そんなことは知っている。俺の友人達だって、ことあるごとに親にバカにされるって言っていた。

「お父さんの真意を私が知ることはできません。

ですが、あまり気に病まないでください」

「でも」

 気に病むなと言われても、そんな難しいことはできない。だって、あんなにかわいい俺の折り本をゴミ扱いされたんだ。きっと海老名先生だって、無理に褒めただけなんだろうし。

 頭の中がぐちゃぐちゃになって言葉が出てこない。そんな俺に、海老名先生はにこりと笑ってみせる。

「それに、私は本当に、あなたの作った折り本が素敵だと思いました。嘘でもお世辞でもありません」

 この言葉も本当かどうかわからない。だから、俺はこう言った。

「バカにされたのがくやしくて、あの折り本は破きました」

 すると、海老名先生はあきらかに、感情的になっている俺でもひと目でわかるほど動揺して、右手を胸の前で上下左右に動かしながら呟く。

「そんな……ああ、それほどつらかったのですね」

 そこでチャイムが鳴った。もうすぐ一限目がはじまる。

 海老名先生が時計を見てから俺に訊ねる。

「まだ、話したいことはありますか?」

 黙って頷くと、海老名先生は立ち上がって優しく俺の肩を叩く。

「それなら、ちょっと生徒指導室に移動しましょう。

ここで話すよりも落ち着くでしょうし」

「でも先生、授業は?」

 予想外の言葉に俺が驚いていると、海老名先生はにこりと笑って答える。

「さいわい、今日の一限目はあいています。

東大島君さえよければ、私も話がしたいです」

 うちのクラスの今日の一限目はなんだったっけ。それを考えると、倫理だったことに気付いた。

「俺も、先生と話したいです」

「そうですか。では行きましょう」

 ふたりで職員室を出て、隣にある生徒指導室に入る。職員室よりもずっと狭くて、重苦しい雰囲気だ。

 俺も何度もこの部屋に呼び出されたことはあるけれど、どうしてもこの雰囲気には慣れない。でも、なぜだか海老名先生と一緒なら大丈夫だという気がした。

 部屋の真ん中にある机の前に置かれた倚子に、海老名先生と向かい合わせになって座る。この部屋に来るときはいつも立ちっぱなしにさせられていたので、なんだか不思議な感じがした。

 すこしの間、向かい合ったままお互い黙っていた。でも、このままだと時間が過ぎていくだけだ。だから、なんとか言葉を絞り出す。

「海老名先生は、バカにされた俺の気持ちがわかるんですか?」

 声が震える。きっとわかってくれないと思ったのだ。だって、海老名先生は、たしかに怒られていることは多いみたいだけれど、誰かからバカにされたりしたことがなさそうだったから。

 すると、海老名先生は深く息を吸ってから、意外なことを言った。

「そうですね。すこし話が逸れているように聞こえるかもしれませんが、聞いてください。

私は大学時代に、漫研に所属していました」

 それがどんな関係があるのだろうとは思ったけれども、それとは別に驚いた。海老名先生は、漫画だとかそういうのとは無縁に見えるからだ。

 いつも真面目そうにスーツを着て、身嗜みを崩したことがない海老名先生と、漫研というもののイメージが結びつかない。

 俺が知ってる漫研は、オタクの集まりで、なにをしてるのか全くわからなくて不気味で、でも、なんだかいつも楽しそうにしている。そんなものだ。

 海老名先生は懐かしそうに微笑んで話を続ける。

「漫研に所属していたということはつまり、私も漫画を描いていたということなのですが、東大島君は私がはじめて描いた漫画がどんなものだったか、想像できますか?」

 はじめて描いた漫画。漫画ってどうやって描くんだろう。それはわからないけれど、がんばって海老名先生が描いたであろうはじめての漫画を想像しようとする。けれどもまったく頭に浮かばなかった。

「……わからないです」

 俺が小声で、少し怯えながらそう答えると、海老名先生は頷いて優しく言う。

「正直に答えてくださってありがとうございます。

実は、私がはじめて描いた漫画は、その時の漫研のメンバーの中で一番下手だったんです」

 懐かしそうに、海老名先生ははにかむ。

 どうして下手だということをそんなふうに受け入れられるのだろう。懐かしい思い出にできているくらいなのだから、やっぱり海老名先生はバカにされたりなんかしてないんじゃないだろうか。

「先輩達は、がんばったねと褒めてくれました。

描き上げただけでもえらいと言って褒めてくれて、立派な部誌の中にも入れてもらえました」

 海老名先生は俺に自慢したいのか? 自分は下手でも認められたんだって。拳を握りしめて目頭が熱くなるのを感じていると、海老名先生はさらにこう続けた。

「でも、他のサークルの人にはバカにされました。

漫研はただでさえ絵が下手なのが集まっているのに、その中でもひときわ下手なのを部誌に入れるなんて、生き恥をさらすようなものだって」

 顔を上げて海老名先生の顔を見る。悔しい思いをしたはずのことを話したのに、それでも微笑んでいる。

「……海老名先生は、はじめて描いた漫画をゴミだって言われたりしたんですか?」

「ごみ……そうですね。

ごみの方がまだ存在価値があると言われました」

 そんなひどいことを言うやつがいるんだ。俺が言われたわけでもないのに、海老名先生の漫画を貶したやつに腹が立つ。

 それなのに、海老名先生は困ったようにはにかんでいるばかり。どうして海老名先生は怒らないのだろう。

「先生は、くやしくなかったんですか?」

 俺だったらくやしくて、言ったやつのことを何度も殴っていたと思う。そう思っていると、海老名先生はこう答えた。

「下手だという意見に関しては、その通りと納得するほかなかったです。実際に下手でしたし。

ですが、ごみのほうがましと言われたことに関しては、まだ納得できていません。

この納得できていない、ということがくやしいということなのでしょうけれども」

 海老名先生はくやしそうな顔も、悲しそうな顔もしていない。ただ微笑んでいるだけだ。なんでそのくやしさを、海老名先生は受け入れられるのだろう。

 そこまで考えて、もしやと思った。親には褒められたんじゃないかという気がしたのだ。

「でも、親には褒めてもらえたんですよね?」

 俺がそう訊ねると、海老名先生はまた困ったように笑って答える。

「両親には、そんな無駄なことをしていないで勉強をしろと言われました」

 胸を何かで刺されたような感覚がした。海老名先生も、俺みたいに作ったものを認めてもらえなかったんだ。それがわかって、海老名先生はバカにされたことなんてないと思い込んでいた自分が恥ずかしくなった。

「私の両親は、私達を大切に育ててはくれていたのですが……どうにも創作というものは理解しがたかったみたいです」

「へ……へぇ、そうなんだ」

 自分を大切にしてくれている両親に、作ったものを否定されるっていうのはどんな気持ちなんだろう。俺なんかは、父さんも母さんも元々俺を大切になんてしてくれてない。だから、バカにされてもいつものことだって思えたけど、海老名先生はどう思ったんだろう。

 胸が痛い。なんでこんなに痛いのかがわからないまま、頭に浮かんだのはバラバラに破いてしまった折り本だった。

「海老名先生は、親にやめろって言われて、漫画を描くのやめたんですか?」

 なぜか掠れてしまっている声でそう訊ねると、海老名先生はすこし遠くを見て答える。

「そうですね、たしかに今は描いていないです」

 胸の痛みが増して苦しくなる。

 どうして。海老名先生がもう漫画を描いてないことは俺には関係ないはずなのに。

 俯いて浅い呼吸を繰り返していると、海老名先生がはっきりとした声で言う。

「ですが、大学在学中の四年間は、毎年部誌に載せるために漫画を描いていました」

 なんて言えばいいのかわからなかった。海老名先生は、バカにされてもやめろと言われても、時間があるうちは漫画を描いていたんだ。

 それを聞いて浮かんできた気持ちを捕まえたいのに捕まえられない。俺は今、どんな感情なんだろう。

「大学時代に描いた漫画は、今見てもどれも下手だと思います。進歩もあったかどうかわかりません。

それでも、その漫画は今でも私にとって大切な思い出です」

 わからない。なんで海老名先生がそんなふうに思えるのかがわからない。でも、なんとなく納得してしまう。

「先生は、漫画を描いてたのが無駄だって思わないんですか?」

 俺がそう訊ねると、海老名先生は頭をゆっくりと横に振る。

「思いません。

あの経験があったからこそ、今があるのですから」

 海老名先生の言葉に、すごく安心した。ようやく、俺は俺が作ったあのかわいい折り本が無駄じゃなかったんだって思えて、それで安心した。

 思わず口から突いて出る。

「俺がまた折り本を作ったら、見てくれますか」

 それから、なんとなく気まずくなった。調子に乗ってると思われたらどうしよう。そんな考えが頭を過ぎる。

 思わず視線を泳がせていると、海老名先生はすこしうれしそうに笑って言う。

「あなたが見せてくれるというのでしたら、ありがたく」

 口元が緩んで綻ぶ。まだ笑えるような気分じゃないのに、海老名先生の言葉がうれしかった。

 顔が緩んでるのを見られるのが恥ずかしくてすこし顔を背けると、海老名先生がぽつりと呟いた。

「実は、あなたが折り本の作り方を聞きに来てくれてうれしかったんです」

「……なんで?」

 あの折り本の話は、俺に聞かせるために出したのだろうか。いや、でも、海老名先生がそんなに俺のことばっかり気にしているはずはないし……

 そう思っていると、海老名先生はこう答えた。

「自分が好きなものを気にしてくれる人がいるというのは、うれしいものです。

でも、まさか東大島君が興味を示すとは思っていませんでした」

「うん、そっか」

 やっぱり、俺に聞かせるために出した話じゃなかったみたいだ。すこしだけ不満のような気もしたけれど、そこまで海老名先生に俺ばっかりを気にしろっていうのは、それこそ調子に乗ってるだろう。

 すると、海老名先生が気まずそうに言葉を続ける。

「だから、その、今思うと悪いことをしてしまったかとは思うのですが、あなたが折り本を作ってきてくれたのがうれしくて、私の家族に自慢してしまいました」

「自慢したって、俺のあの折り本を?」

「はい。とても素敵な折り本を作った生徒がいると、妻と子供に自慢してしまいました。

……あの、もし気に障ったら申し訳ないです」

 自慢した? 海老名先生が、俺の折り本を? 海老名先生の家族に?

 海老名先生はすこし視線を落としている。多分、本当に気に障っているかもしれないと思ってるんだろう。

 でも、気に障るなんてことあるはずがない。だって、海老名先生がそんな、家族に自慢したくなるほど、俺が折り本を作ったのがうれしかったなんて。そんなによろこんでくれてたなんて知って、嫌な気持ちになるはずがない。

 それなのに涙が溢れた。今は泣きたいんじゃなくて笑いたいのに涙が止まらない。どうして自分のことなのにままならないんだろう。

 膝に肘をついて、手で顔を覆って泣いていると、海老名先生の手が優しく俺の頭を撫でてくれた。

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