ノイズ劈け

狐照

ノイズ劈け

足もとをふと見留めた。

それだけで世界が変わるのなら、いつまでこうしていたかった。

目玉が熱をもって肥大しそうで。

嗚咽に似た何かが込み上がってきた。

背中に滲むのは汗なのか。

唇に触れるのは、風なのか。

この鼻孔で感じる匂いは正常なのか。

足もとを、見続けた。


「ああ、まだいたの?」


ノイズがかったそれに、背中に流れる液体の正体を暴かれる。

舌に匂いが広がって。

目玉が膨張してしまえばと。

世界が、変わってしまえばと。 

付け焼き刃の幻にまみれてしまいたいと。

嗚咽を咀嚼する。


「ほら、ちゃんとやったぜ?」


ノイズは放送終了を告げているのか、不鮮明な番組を伝えたいのか。

振り返ってこちらに向かって歩かれる。

動きで空気が流動して、あたりの臭いがこれでもかと存在を押しつける。

押しつけがましい現実に、脳が破裂そうだった。

それでも世界は変わらない。目の前から消えない。

強烈な時間の胎動に、思わず後ずさってしまった。


「怖がんなよ、もう、へーきだぜ?」


液体が溜まった持ち場を離れ、一歩踏み出される。


「震えてる?」


頷けるほど冷静ではなかった。

足もとを見るだけで精一杯だった。


「じゃあ、次は、お前ね」


弾かれるように、顔を上げたそこに。

菩薩のような微笑みが控えていた。

真白な肌に、小さな赤い斑点を作って。


足元を、見留め続けていたからか。

瞬時に心の琴線に触れた。

どろっとした黒い心の方のが。

震えている鹿みたいなのが、面白いと感じたけれど。

超然とした立場にいるような気がして、不愉快になっていた。

そんな格好でいるのに。

己は被害者。

目撃者。

耳障りな自分の声も去ることながら、弱者を選ぶ目の前の人物が。

目障りだった。

好きだったけど、もういいや。

そんな気分で死刑宣告を吐き出した。

視界から消える鹿。

背中から半身を無くした傷をさらけ出しながら。

よろよろと、逃げる鹿。

付け焼き刃の幻に、逃げるように。


廊下で嘆く反響にしばらく耳を傾けて。

改めて背後に転がっていたものを見下ろす。

哀れな半身。

好きだったのに、涙も出ない。

赤い体液に沈められた、大好きだったもの。

そっと頬に手を伸ばす。


伏せられた瞼が開いたのは同時だった。


半身に裏切られ世界が終わった気がした。

嫌われていたなんて。

嫌われていたなんて。

意味がない。

意味がない。 己の体液の海で藻掻きながら、泣いていた。

そう叫びながら泣いていた。

苦しい、苦しいとも。

目の前が憎しみで塞がった。

半身が憎しみで殺せたならと。

この目で殺せたならと。

藻掻きながら溺れながら。

遠のく意識の中で、強く想ってしまった。

大好きなひとの顔が急に目の前を覆った。

付け焼き刃の夢かと、思った。

泣きそうな顔だった。

苦しそうな顔だった。

口から飛び出した舌を、そっと納め直してくれた。

抱え上げてもくれた。

世界が、あっという間に広がって。

大好きな人は、笑って俺を床に落とした。


遠い所で大好きな人が怒っている声がする。


あてもなく駆けずり回る影。

正体は背中かから体液を溢れ出させながら逃げる鹿。

それは手追いではなく、逃亡者。

弱者ではなく狂人。

非常灯の微かな明かりを頼りに、どこかへ逃げようと。

出口のない廊下を駆け続けている。


「おおーい」


鉛のように重くなり出した体に、電撃が走る。

あいつの声だ。

あいつの声だ。

息を乱した駆けずり回る。


「おーい」


にやにやと、下品に笑う月のような気配。

重い暗闇の奥から呼ぶ、その声。

引きずり込むようなそれに、なお駆けずり回るあてどなく。


「いいって、な、もう」


風が動いて手の中に血脂が溜まった、ような気がした。


「おにぃさんは無事だから」


囃し立てる疲労の重み。


「だからお前はここでどこまででも、行け」

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