第1話 その、ドイツ人美少年は……3/3
「いやあ、本当にすごいぜ!」
〝決闘〟をただ見ていただけの祥太郎が、勝負を制したサシャ本人を差し置いて、安堵の反動だろうか、興奮しながら「すごい」を繰り返している。もっともサシャ自身は、相変わらずつまらなさそうな顔をしているだけだったが。
敗北のショックで立ち上がれない田原と、その他のギャラリーを剣道場に残して、祥太郎はサシャを連れて食堂へと向かっていた。一高生の食事は、学生食堂で提供されているのだ。
「あの武道バカの田原をやっつけるなんて、意外というか、ここまでくると爽快だな! 君は、やっぱり、フェンシングを嗜んでたのか?」
サシャが迷惑そうに答える。
「……ちょっとかじっただけだ。そんなことより、おせっかいはやめてくれよ。僕は昼食は摂らないっていっただろう? それに、あの臭い防具とやらの匂いがたまらない。手を洗いたい」
だが、興奮している祥太郎は、最後までロクに聞かずに、食堂前の黒板に書いてあるメニューを見て、小躍りした。
「お、今日のおかずはロールキャベツだぞ!」
教室に帰ろうとするサシャを何とかなだめながら、祥太郎がサシャとテーブルにつくと、控えていた給仕が、メインディッシュのロールキャベツの皿を持ってきてくれた。ご飯と味噌汁は、それぞれテーブルごとに、おひつとバケツに入っている。祥太郎が、サシャの分もご飯と味噌汁をよそってやった。
「じゃあ、食べようか! 決闘で、腹も減っただろうし!」
そう言った祥太郎だが、サシャは右手で頬杖をつきながら、黙って昼食を見下ろしているだけだった。
「あの……やっぱり、昼食は摂らないのか?」
サシャが、蚊の鳴くような声で言った。
「……うまく使えない」
「え?」
ムキになったように、少し顔を赤らめて、サシャが言った。
「ハシをうまく使えないんだよ! 悪いか?」
「あっ……なるほどなるほど! そうだよな、慣れてないよな、気がつかなくて悪かった!」
祥太郎は給仕に頼んで、スプーンとフォークを持ってきてもらった。
受け取ったサシャは、ロールキャベツを、上品にフォークを使って口にした。ご飯も、何とか食べることができているようだった。
その様子を見ながら、祥太郎は思った……なんだかんだ言って、腹は減ってたんだな。それにしても、ツンツンした言葉しか出てこないのに、可愛らしい口をしているんだな。……いや、いかんいかん。男相手に、俺は何を感じ入っているんだ。祥太郎は、味噌汁に映る自分の顔に、心の中で𠮟咤した。
サシャは、味噌汁だけ残して、昼食を終えた。
*
結局その日、サシャは積極的に授業に参加する姿勢を露ほども見せないまま、放課後を迎えた。
サシャは、そのまますぐ帰ると言い出した。祥太郎は、仕方なく、いまだに敗北のショックを引きずっている田原や、その他のクラスメイトを残して、サシャと共に教室を出た。田原を圧倒的に打ち負かしたサシャに、気易く声を掛けられる者は、もはや、祥太郎以外にはいなかったのだ。
祥太郎は、サシャを帝都線の一高前駅まで送ってやることにした。
祥太郎とサシャが学校を出ると、駅までの道すがら、五銭で焼き芋を売っているリヤカーがあったので、祥太郎が一つ買ってサシャに渡してやった。
新聞紙に包まれた何かの熱源体を見て、サシャは怪訝そうな顔をした。
「なんだこれは?」
「焼き芋だよ。サツマイモ、ドイツにもあるだろう?」
「サツマイモ?」
「えーと……Süßkartoffelだよ」
「ああ……」
サシャははめんどくさそうな顔をして受け取った。そして、バナナの皮をむくように新聞紙を破って、おもむろに焼き芋にかじりついた。
「……あふあふっ!」
サシャが、口をパクパクさせながら、焼き芋の熱さに驚いているのを祥太郎は笑ったが、すぐにサシャに睨まれてしまった。
「どうだ、美味いか?」
「……悪くはない」
サシャの顔が満更でもなかったようだったので、祥太郎は胸をなでおろしていた。
そうこうしているうちに、二人は一高前駅に着いた。
「あのさ……サシャ」
「何だ?」
「その……明日からは、もうちょっと、柔らかい雰囲気で、授業を受けたり、人と接した方が……いいと思うよ」
「それは、ご学友としての忠告か?」
サシャが、無表情に聞いた。
「ご学友というより……友だちとしての言葉だよ」
「…………」
別れしな、祥太郎はサシャに、どこに住んでいるのかを聞いた。
「……君の知ったことじゃない」
それだけ言って、サシャは改札の向こうに消えていったのだった。
***
一高は、全寮制である。
たとえ家が東京市内にあろうと、生徒は基本的には、学校の敷地内にある学生寮に入り、学生生活を送らねばならない決まりだ。祥太郎も、四谷に実家があるのだが、決まりに従って寮生活を送っている。……もっとも、留学生であるサシャは、この限りではないとのことだったが。
一高の寮舎は、この時代としては先進的な、鉄筋三階建てのコンクリート造りである。祥太郎の部屋は、南北中と平行に並んで建っている三寮のうち、真ん中にある中寮の二階にある五人部屋の一室だった。
夜になって、夕食を終えた祥太郎は、寮の自室の寝台の上で寝っ転がって、同室の
「木下、お前も貧乏くじをひかされたもんだな。あのお高くとまった性悪な留学生の、ご学友とはな……」
「ははは……とにかく、今日は疲れたよ」
「残念だったな。こんな毎日が、これから続いていくってことだろう?」
「そうなるだろうな……それにしても、ドイツの貴族様が、なんで一高に来たんだろうな?」
「そうそう。普通に考えれば、学習院か、せめて陸士(陸軍士官学校)じゃないか?」
「だよな」
鴨井も寝っ転がっていたが、上体を起こして祥太郎に顔を向けた。
「しっかし、たまげたよな! あの気位の高さ……なのか? あと、剣の強さ……まさしく、貴族様だぜ」
「ああ。すごかったよな。あの田原が、自分の専門ではないにしても、我が国の武道で敗れ去ったんだから!」
「でもさ……あそこまでやっちゃ、俺たち一高に溶け込むのは無理だな。そんなやつのお世話係とは、木下、本当にご愁傷様だよ……」
「……まあ、ぼちぼちやっていくよ。それしかない」
「あまり、無理すんなよ? 嫌になったらほっぽらかしても、バチは当たらないさ」
「ほっぽらかしたりは……できないよ」
「木下はさ、そういうところ、真面目だよな」
「……あとさ、サシャは、性悪とはちょっと違うと思うよ」
祥太郎がぼそりと言った次の瞬間、これも同室の仁川が、部屋に入ってくるなり、祥太郎に声をかけた。
「おーい。木下、客だぞ。玄関にいる」
「俺に? 誰だ?」
「さあ……執事みたいなおっさんだったぞ」
「……?」
こんな時間に、誰だろう。祥太郎は、首をかしげながら、寮の玄関に向かった。
玄関の外の薄暗いところに立っていたのは、黒い燕尾服を着た、上品そうな初老の男だった。仁川の言った通り、まさしく、ザ・執事といった感じのいで立ちと雰囲気だった。
「木下祥太郎様ですか?」
「は、はい。僕ですが」
「サシャ様のご学友の方ですね? 手前は、フランベルグ家に出入りしている執事の者でございます。失礼とは思いましたが、このような時間にお邪魔させていただきました」
「ああ、サシャ君の……」
「はい。今日、菓子をご馳走になったとのことで、そのお代をお持ちしました」
「あ……焼き芋のことか。別に、今日のは奢ったつもりだったのに……」
差し出されたのは、新品の白封筒だった。中を見ると、十銭硬貨がひとつ入っていた。
「待って下さい。これ、多すぎますよ。あの焼き芋は五銭でした」
祥太郎が言ったが、執事は先刻承知とばかりに口を開いた。
「いいのです。それは、サシャ様のお心遣いだとお思いください」
そのまま帰ろうとする執事を、祥太郎は呼び止めた。
「お待ち下さい。五銭はお返しします」
「ですが……」
執事は困惑したような表情を見せたが、祥太郎は真顔で言った。
「金銭関係で成立する友人関係など、健全ではないと思います」
一瞬ポカンとした執事は、次の瞬間には相好を崩していた。
「なるほど。木下様のおっしゃる通りですね」
執事は祥太郎から十銭硬貨を回収し、財布から出した五銭硬貨を渡して、夜闇に消えていった。
*
「……と、申しておられました」
「ふん」
ここは、麴町
「今どき、珍しい少年でしたな」
「珍しい? ということは、日本人とは、今回のような場合、金を喜んで受け取るようなものなのか?」
「受け取る者は受け取るでしょう。心根が卑しい者であれば、特に」
「受け取るほうが、この国では普通なのか?」
「まあ、〝恥をかかされたと思われてはいけない〟と思って、受け取る場合もあるでしょう。これはこれで、日本的な一つの考え方です」
「恥……か。いまいち分かりにくい概念だな」
「まあ、今回の場合は、あくまでも、対等でありたいと思う気持ちがあったのでしょう。貸し借りと言いますか……金銭関係が生ずれば、必然、支配関係も生じますからね」
「ふん、対等……か……」
サシャは、前髪をいじりながら話を続ける。
「日本は不景気だと聞いていた。支配関係とやらがあるほうが、やりやすいと思ったんだがな」
「ボロは着ていても心に錦、という言葉もあります」
「見栄、というやつか?」
「まあ……そうとも言いますな」
「……しかし、今日決闘の真似事をしてみて分かったが、大和魂とやらも大したことはなかった。上は、日本を過大評価しているのではないか?」
「ご留学はまだ始まったばかりです。早急な評価は、慎んだ方がよろしいのでは……? せっかく日本語も学ばれたのですし……」
「……ふん。日本語など、習得するには二か月もあれば十分だ」
めんどくさそうに、顔を背けるサシャ。
「ところで、余った五銭は、いかがいたしましょうか?」
「お前がとっておけ」
「仰せとあらば……。しかし、嬉しいものです」
「何がだ? 五銭が手に入ったことがか?」
「いいえ。ひとつは、サシャ様が、真剣に日本について、お学びになろうとされていること……先ほどのご夕食の際も、箸の使い方を熱心に勉強されていましたしね。もうひとつは、サシャ様に、対等なご友人ができたこと、です」
佐川の、まるで孫を見るような優しい眼を見たサシャは、自分の眼をすっと細めて言った。
「……勘違いするなよ、佐川。僕は命令で動いているだけだ。個人的には、日本などどうなってもいいと思っている。それを忘れるな」
「承りました。では、お休みなさいませ。お嬢様」
佐川は退室した。
サシャはベッドから立ち上がり、ネクタイを緩めて、シャツのボタンを上からいくつか外し、その下にある特製のブラジャーを外した。元々それほど目立っていない胸が、くびきから解き放たれて、ちょこんと自己主張した。
「はあ……窮屈だ」
サシャはブラを放り投げた。そして、ベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
「ああ、疲れた……。本当に疲れた……」
そして、もう一度一人ごちた。
「対等な友だち……か」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます