第2話 その、厳しい軍事訓練は……1/3
サシャの留学初日から、数日。
サシャは相変わらず、毎日つまらなさそうに登校してきては、つまらなさそうに下校していく……そんな日常を繰り返していた。
そんなサシャを、
サシャは、授業態度こそよろしくなかったが、座学は優秀だった。母国語であるドイツ語は言うまでもないが、数学や物理・地学といった、理数系の科目の理解が特に深く、小テストでは文乙の上位に食い込んで、皆をあっと言わせた。もっとも、国文などはサシャからすれば外国語なので、そこはときおり祥太郎がフォローしてやっていたが。
……そんな祥太郎が、また頭を抱えることになったのは、学校教練の時間のことだった。
この時代、言うまでもなく、日本……大日本帝国は、帝国主義・軍国主義下にあった。満州事変に端を発する支那(中国)での戦争状態が、すでにもう五年近く続いている戦時下にあったのが、まさにこの昭和十年だった。
そんな中、学校授業の一環として、学生にも軍事訓練を受けさせる、いわゆる学校教練が、制度として全国の各種学校に存在した。むろん、一高も例外ではなかった。
……この日、サシャにとっては初めての教練の時間がやってきた。
祥太郎たちは、学生服の上着を脱いでシャツだけになり、ズボンにはゲートルを巻いた。
サシャは、とりあえずいつも通りの服装だった。
そんな二年文乙が、秋晴れの陸上グラウンドに出て整列していると、やがて銃器庫のほうから、学校教練の教官として、日本陸軍から学校に派遣されている軍服姿の配属将校が一人、軍刀を腰に吊り、肩をいからせてやってきた。
「来たぞ、ゾル(配属将校)だ……」
二年文乙の生徒達は、緊張の面持ちで
配属将校は、だいたいにおいて、どの学校でも煙たがられていた。知的でリベラルな精神を有する学校に、強権性を振りかざして居座り、生徒たちの体力と精神力を奪っていく配属将校が、どだい受け入れられるわけもなかったのだ。と言って、生徒たちは、教練をサボるわけにもいかなかった。配属将校が……教官が怒髪天を突くのは言うまでもないが、これで落第点をつけられれば、進級できなくなって卒業にかかわるのは、他の授業と何ら変わらなかったからだ。
おまけに、一高に配属された山崎……三十半ばごろの大尉の教官は、よく学生を殴ることで有名だった。必然、山崎教官は、もれなく一高生の嫌悪の的となり、悪しき軍国主義の権化となっていた。
祥太郎は心密かに祈った……サシャが、何事もなく、教練を終えられますように、と。
「気を付け! 山崎教官殿に敬礼っ!」
敬礼する生徒たちに答礼した山崎の号令一下、教練が開始された。
「この中に、ドイツ人留学生がいると聞いたが、誰か?」
「はい」
サシャが一歩前に進み出た。
「何だその格好は? まるで宝塚だな。まあ、今日は初めてでもあるので、日本の学生教練をたっぷりと見学するんだな」
「ありがとうございます」
山崎が、残りの生徒たちに向き直る。
「よし、まず最初に、軍人勅諭(天皇の言葉)の暗唱、はじめ!」
生徒たちは、この三千字ほどもある勅諭を、絶叫するように暗唱した。
「我が国の軍隊は世々天皇の統卒し給ふ所に………………………………………………(中略)…………………………………………明治十五年一月四日!
効果の怪しそうな呪文の詠唱を終えて息をついている生徒たちと、それを見て満足そうにしている山崎教官を、ひとりサシャは冷ややかそうな眼で眺めていた。
「本日は、銃の
山崎の指示のもと、サッカーグラウンドの隅にある銃器庫が開放された。一人に一丁づつ、日本陸軍の正式ライフルである三八式歩兵銃が渡った。
この日、山崎は、やけに張り切っているように見受けられた。
明治以来、日本陸軍が範としているドイツからやってきた留学生のサシャに、良いところを見せようとでも思ったらしい。
さっそく、一人目の生贄として、仁川が睨まれた。
「おい貴様! 前に出ろ!」
「はい!」
「何だその姿勢は!
「はっ、申し訳ありません!」
「気合を入れてやる! 歯を食いしばれ!」
ばしん。
肉を打つ、鈍い音がした。
「ありがとうございました!」
そう叫びながら、隊列に戻った仁川が泣きそうになっているのを見て、クラスメイトたちは心を痛めた。他にも、同じように、二、三人の生徒が、動きがなっていないと殴られている。
文乙の生徒達は、山崎に対する怒りを新たにした。
基本的な銃の操法を終えると、教練は、狭窄弾による射撃訓練に移った。
一同は、サッカーグラウンドの端にある、板囲いされた狭窄弾射撃場に向かった。
この狭窄弾とは、訓練用として、通常の実弾よりも火薬を少なくして、威力を減じて撃ちやすいようにしたものだった。
ただし、威力が弱いと言っても、一人前に破裂音と発砲炎は出るし、反動もある。
祥太郎も五発撃ったが、的の中に入ったのは一発で、あとは弾痕不明という有様だった。
案の定、祥太郎は目ざとく山崎から怒鳴られた。
「木下! 何だその射撃は! 全然なっとらん! 前に出ろ!」
「はい!」
「歯を食いしばれ!」
ばしん。
「……ありがとうございました!」
一通り生徒たちが射撃を終えると、山崎はサシャに振り向いて言った。
「どうだ、留学生。撃ってみるか?」
「はい」
サシャが、三八式歩兵銃と狭窄弾五発を受け取った。そして、慣れた手つきで、手のひらのなかの狭窄弾を一発装填した。
構えると同時に、発砲。
同心円が描かれている標的の真ん中に、次々と狭窄弾が撃ち込まれていく。渡された五発とも、命中していた。
「す、すげえ……」
「ほう、さすがヒトラーユーゲント仕込みだな」
祥太郎たちや山崎が、驚きの声を上げたが、当のサシャは、まったく喜びの表情を示さなかった。
あ、サシャのやつ、またつまらなさそうな顔をした……と祥太郎が思った次の瞬間、サシャは銃の薬室に弾丸が入っていないことを確認したうえで、銃を投げ出すように地面に置いた。
「バカバカしい」
そう言ったサシャの言葉を、当然、そばにいた山崎は聞き逃さなかった。山崎は顔を真っ赤にしてサシャに向き直った。
「おい、留学生! 今、何て言った?」
「バカバカしいと言いました」
「聞こうか……何がバカバカしいんだ?」
「まず、この銃が、日本人の体格に合ってない」
「何……?」
「無駄に大きくて、無駄に重いんです。日本人の体格に合わせるなら、兵装は歩兵銃ではなく、銃身が短く軽量な騎兵銃で充分です」
ぬけぬけと言ったサシャに、山崎が詰め寄る。
「貴様……畏れ多くも陛下から下賜された、三八式歩兵銃を愚弄するのか……?」
「銃だけじゃありません。狭窄弾……ですか? こんな威力の弱い弾丸を使って訓練しても、何の役にも立ちません。ドイツでは、もっと小さな少年でも、実弾を使って射撃訓練をしています。この事実を見ても、日本の学生の軍事訓練は、遅れていると言わざるを得ません」
「き……貴様!」
山崎が、右の拳を振り上げた。
ああ、結局これかよ……祥太郎はその場で項垂れて……すぐに頭を上げ直した。
サシャが殴られそうになったのを見て、生徒たちは思わず顔を背けた。が、頬を打つ音はしなかった。
祥太郎が、山崎の前に立ちはだかっていたからだ。
「何の真似だ、木下?」
「やめて下さい。殴るのであれば、俺を殴って下さい!」
サシャが目を少しだけ見開き、山崎が顔をしかめて祥太郎に聞いた。
「何だと? なぜそんなことを言う?」
「その……彼はドイツを代表して、ここで学んでいるんです。こんなことで彼が一高に悪印象を持てば、日独関係に関わります!」
「こんなこととは何だ!」
山崎が怒鳴り、その拳がうなった。祥太郎は左の頬を打たれて、地面に転がった。が、すぐに起き上がり、また山崎の前に立ちはだかろうとした。
再び山崎が右拳を振り上げようとしたそのとき、黙っていたサシャが、口を開いた。
「教官、意見を述べていいですか?」
山崎は、右の拳を、左手で労わるように撫でながら答えた。
「……何だ。言ってみろ」
「ドイツの軍隊行動では、個人としての能力よりも、小部隊の能力のほうが重要視されます。決して、兵士一人ひとりの能力だけで戦闘力は計れません」
「青二才が、何を分かったようなことを……!」
「教官、あなたの従軍経験は?」
「一年前まで、支那の河北省に動員されていた! 自分が指揮していた中隊は、敵に負けたことはない!」
「中国の寄せ集めの三流の軍隊など、比較の対象にする方がおかしい。だから日本陸軍は二流なんだ……」
山崎が、顔をピクつかせながら聞き返す。
「日本陸軍が二流だと? 理由を言ってみろ」
「何と言っても、この二十世紀にもなって、ほとんど機械化されていないからです。トラックも少ないし、戦車も玩具みたいで、おまけに数も少ないときています。もっと機械化を推し進めて、精神主義偏重を正せば、日本陸軍も一流になれるとは思いますが」
祥太郎はサシャの言葉を聞きながら、よく日本陸軍について勉強しているものだな、と感心した。
いっぽうの山崎は、怒り心頭の様子だった。
「留学生の分際で、何を分かったようなことをさっきから並べとるか!」
「はっきり言います。あなたの教練の方法に、合理性はない」
山崎の怒りのボルテージが、どんどん上がっていく一方なのを目の当たりにして、祥太郎は、何とかサシャを止めようとした。
「おいサシャ、もうやめろって!」
しかし、サシャの言葉は止まらない。
「と言うか、ひとことで言えば、面白くない。つまらない」
「面白く……ないだと?」
山崎は、鼻で笑った。
「じゃあ聞くが、面白い教練とは、いったいなんなんだ? 教練は、子供のお遊戯じゃないんだぞ?」
「それは……」
サシャが言いよどんだ。
山崎がまたイライラし始めたのを見て、祥太郎は割って入った。
「教官殿、そのような難しい説明をサシャにさせるのは酷です。サシャはまだ、日本語のボキャブラ……語彙力が十分ではありません!」
「バカ者。俺だって、陸軍士官学校で英語くらい習っている。言い直す必要はない!」
「はっ、申し訳ありません!」
山崎はしばらく腕組みをしていたが、ややあって口を開いた。
「よし、留学生。それなら、貴様が、次の教練の時間に〝面白い〟教練とやらを、実際にやってみてもらおうじゃないか」
*
学舎への帰り道、血の混じった唾を吐きつつ歩く祥太郎の肩を、後ろから頼もし気に叩いた者がいた。それは田原だった。
「おい木下、俺はお前を見直したぞ。ただの貧弱なもやし野郎だと思っていたが、あの山崎教官に堂々と立ちはだかるとは、お前も男じゃないか!」
切れた口の中をもごもごさせながら、祥太郎は言い返した。
「俺はお前の中では、もやしという認識だったのか。失敬千万だな」
祥太郎のそばにいた鴨井が口を開いた。
「それよりもさ、サシャのやつ、大丈夫なのか? 次の教練の時間は、やつが仕切るということになっちまったじゃないか……」
サシャは両腕を組んで、難しそうな顔をして一人歩いていた。
そして放課後。
終礼後に手洗いに行っていた祥太郎が教室に戻ると、すでにサシャの姿はなかった。もう帰ってしまったのかと思ったが、サシャの鞄は机に掛けられたままだ。祥太郎は、学校中を探し回った。食堂、図書館、寮、グラウンド……。
果たして、サッカーグラウンドの端、狭窄弾射撃場の近くに、サシャはいた。サシャは、一人で地面に杭を打っていた。
「サシャ、何をやってるんだ?」
「面白い教練をあの山崎教官に見せるために、準備をしている。中澤教授に頼んで、色々と手配してもらったんだ」
見ると、地面に、杭やベニヤ板、木材、ロープなどが散乱していた。
「なんだかよく分からないが、一人じゃ骨だろう。手伝おうか?」
「……必要ない」
「そんなこと言うなよ。手を貸すぜ」
「……」
新たな杭を打とうとしていたサシャから木槌を取り上げながら、祥太郎は言った。
「負けず嫌いなんだな、サシャは」
「……理不尽に対して、何もしないのが僕は嫌なんだ」
「そうか。だったらなおさら、手伝いたくなってきたよ」
「……勝手にしろ」
「ああ、そうする」
祥太郎とサシャが二人で杭を打っていると、新たな足音が聞こえた。
「おい、面白そうなことをやってるな」
やって来たのは、仁川と鴨井だった。
祥太郎が問いかける。
「お、お前ら……どうしたんだ?」
「どうしたも何も、校舎から丸見えだぞ、お前たちがここで何かしてるのが」と鴨井。
「どうせあれだろ? 次回の教練の準備か何かだろ? 手伝うよ」と仁川。
祥太郎とサシャは、顔を見合わせた。
祥太郎が問う。
「え……本当に、手伝ってくれるのか?」
「まあ、俺としては、配属将校に俺たち生徒がやられっぱなしというのも嫌だからな」と鴨井。
「俺はな、サシャ、お前の言う〝面白い教練〟を成功させて、あの山崎教官をぎゃふんと言わせてやりたいだけだ」と仁川。
サシャが、やがて、ぼそりと言った。
「……僕は、頼んだわけじゃないからな」
仁川も鴨井も、口々に答えた。
「「ああ、分かってるよ」」
それからの時間は、サシャの指揮のもと、夜中までかかって、祥太郎たちは杭を打ち、針金を張り、櫓を立て、縄を垂らし、板壁を作った。
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