第46話 愛しい人

 ドアが開く音、そして「ただいま」と……一番聞きたかった声がする。ソファに座ったまま首をその方へ向けた。


 ああ、愛しい人。世界で最も大切な人。この世で唯一の存在。まるで子供に戻ったかのように、わんわん泣いた。声を上げて叫んだ。謝った。


 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!


 そんな私を優しく抱きしめる。オネエ様の胸の中で、オネエ様の匂いに包まれて。いつもと変わらない「大丈夫よ」という透き通った声で、私を安心させる。



 オネエ様だ。ちゃんとここに居る。感じて触ることができる。貴方を幸せにしたかった。ずっと笑顔で居て欲しかったの。苦しみなんて与えたくなかったんだよ。


 本当だよ。許さなくていいから、私から解放されて。その代わりに素晴らしい人生を送ってください。それが私の願いです。ただそれだけなのです。



 オネエ様はびしょびしょになってしまったTシャツを脱いだ。右側腹部にガーゼが張り付いている。大きな白いそれは、後ろの方まで貼られていた。横からザクッと刺されたのだろう。大きな傷だとは分かっていたのに、実際に見ると本当に痛ましい姿だった。綺麗な身体に傷を残してしまった。


 それすらも美しいと思ってしまう。オネエ様はいつもお腹を出していた。冬以外はそういう服装が多かったのだ。これからそんな服が着られなくなるよね。なんという場所に……ああ、神がいるなら殺してしまいたい。


 私は地獄に行ったっていい。一生苦しむことになったっていいのだ。オネエ様は、傷を見て再び涙してしまう私を撫でた。いつの間にか後ろに立っていた咲那絵さんが、私の肩に手を置く。二人の優しさに甘えてしまう自分がいる。自分を苦しめながらも、救われたいと思ってしまう。



 夕食まで少し時間があったので、病院であったことをオネエ様が話してくれた。ICUはベッドの数が8個あり、オネエ様は一番奥で過ごしたのだそうだ。ちょうど瀕死の患者さんが運ばれたりして、慌ただしい日が多かったという。


 そのままその人は亡くなってしまったって。ベッドを囲むのはカーテンだけ。病棟で鳴る音が丸聞こえになる。検査か手術かで下の階へ運ばれたあと、また戻ってきた。しばらくしてそのまま──。


 することもなかったので、カーテンの隙間からそれを見ていたのだそう。三人の看護師と医者が一人来た。看護師が交代で胸骨圧迫していく。実際胸が凹むところまでは見えなかったらしいが、規則正しいベッドの軋む音……数を数えて交代する声。


 一つの命を救おうと彼らは必死だった。何度も何度も繰り返された後、終了の声がした。一斉に患者へ向かって礼をする姿に胸を打たれたそうだ。あとから看護師が話しているのを聞くと、亡くなるケースは滅多にないらしい。まさにICUは戦場だったという。命を預かる仕事の大変さが伝わってきた。



 オネエ様自身は特に異常は見当たらなく、頭の中で出血していることもなかったそうだ。お腹の傷を縫って一週間後の退院日に抜糸されたくらい。麻酔なんてせずに糸を取っていくので、少し痛かったと。



 今は傷がくっついて綺麗に治ってきている。途中から一般病棟に移り、特に何もなかったそう。とにかく暇で、咲那絵さんが持って行ったオネエ様のパソコンをずっといじっていた。



 入院中に仕事するなんて。それだけ元気だったなら良かったのかな。話し終えると、私が長袖な理由を聞かれた。まだまだ夏の暑さが残る時期に着ているからだ。彼が入院する前までは、半袖だった。



『部屋の中が寒くて』なんて言ってみたが、クーラーなんてついていない。明らかに嘘だとバレてしまって、袖をまくって欲しいと言われてしまった。渋々まくって見せると、オネエ様は傷ついた表情をした。



 私の腕には、自傷行為が治りかけている跡がある。痛むか聞かれたので、今は痛くないと答えた。オネエ様は私を責めずに、「辛かったわね」と絞り出した。



 前にもこんなことがあったっけ。はっきり思い出せないや。記憶がごちゃまぜになったり、薄れてしまっているのだ。



 リストカットはやってはいけないことではない。どうしてもしたくなったらすればいい。辛い時はちゃんと言って、徐々に減らしていこう。二人はそう言ってくれた。「やめなさい」なんて言わないんだな。



 私の親だったら必死に止めるだろう。軽蔑するだろう。なのに二人は私を遠ざけたりせず、寄り添ってくれる。いつものように。


 こんな人を目の前にすると、自分がどれほど人に嫌な思いをさせているか。それを自覚させられる。私の存在はフンコロガシでいうと、糞だ。



 それがなければ簡単に乗り越えられる段差を、避けて進まなければならない。そのせいで泥道や険しい道を歩く羽目になる。


 そんな大変な思いをした挙句、他の糞虫に攻撃され瀕死になる。人類は生物界の頂点だ。その中でもここ日本は、戦争をしなくなった平和な場所。それなのに、こんな事件に巻き込んでしまった。



 普通に生きていたら起こり得ないだろうに。私と関わっていなければ入院することもなかった。こんなタラレバ話を考える必要はないのかもしれないが、それだけ私は過去の色んなことを後悔している。


 今日はそんな思考を巡らせて苦しむ暇はないようで、夕食の準備を始めた。退院祝いとして豪華な食事にしたいところだが、生憎そんな体力はない。


 咲那絵さんも私を心配するあまり、疲れ切っている様子だし。簡単なそうめんを食べることにした。話しながら料理をしている間、何も考えなくて済む。



 茹でる時は梅干しを一つ入れると麺がしまって美味しくなる。入れたあと再び沸騰すると、火を止める。ずっとグツグツさせるのに比べて、次の日麺同士がくっつかない。五分放置する間に卵を焼く。



 丁度錦糸卵ができ上がり、咲那絵さんが切ってくれる。そうめんをザルにあけ、水で優しくこすり洗う。この時普通は大量の氷を投入するが、私は入れない。しっかり水で洗えばいいのだ。隣で咲那絵さんがびっくりしている。


「沙蘭ちゃんはいいお嫁さんになるしょや」と言ってくれた。そうかな。結婚に憧れはある。こんな人間を貰ってくれる人がいるかが問題だ。


 結婚とはお互いを尊重し合うものだし、気持ちに余裕がないといけない。そんな日は来るだろうか。全く想像ができないや。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る