第45話 痛みを
いい匂いと共にフライパンで何かを焼く音が聞こえる。目を開けると、カーテンの隙間から光が漏れている。重い身体を動かすと、全身の筋肉が痛い。ゆっくりと私は起き上がった。
足に響かないようにそろそろと窓へ向かい、カーテンを開けた。オネエ様が一番好きになった朝日が私を照らす。こんな私を優しく包み込む。『生きていいんだよ』と言ってくれるみたいに。
顔を洗うために洗面所に向かう途中、キッチンに咲那絵さんが立っていた。フレンチトーストを作ってくれているようだ。洗顔と歯磨きが終わると咲那絵さんは「出来たべさー綸、早く起きて準備すれー」と声をかける。
オネエ様の部屋から「うーん」と唸り声の後、ゴソゴソと動く音がする。そんな光景に笑みが溢れる。しばらく経って、目を擦りながら綸ちゃんが出てきた。
オネエ様の寝起き姿と重なって、目頭が熱くなる。私は頭の中の映像を消すように、熱々のフレンチトーストを見る。美味しそう。一口食べると、ほのかな甘みが口に広がった。お母さんの温かい朝食はこんなものなのか。
私も家族の中に入れたような気がして────
「沙蘭ちゃんなして泣いてるんさ」
「へ? ほんとだ……何でだろ、おかしいな。すみません朝から……っ」
「なんもなんも。そんなの気にしなくていいしょや」
咲那絵さんは私の元へ駆け寄り、背中をさすってくれた。何が悲しくて涙が出るのか分からない。昨日のことを思い出してなのか、オネエ様が居ないからなのか、それとも……温かい家族を感じられたから?
本当に自分は泣き虫野郎だ。情けないよ。人に心配ばかりかけて。二人も辛いのに。
朝食を食べ終えると、二人は鎌ヶ谷病院へ出かけて行った。静かになった室内は私を再び孤独にさせた。オネエ様は一週間帰ってこない。
スマホを確認すると、東宮くんから何度も電話が来ていた。メッセージには謝罪の文が。影彦くんの家族でさえ気づかなかったのだ。彼らは悪くない。
私が引き金を引いたんだ。申し訳ないことをした。彼らはきっと自分を責めているだろう。通話ボタンを押すと、直ぐに東宮くんが応答する。全力で謝られたが、私も謝り返した。
経緯を説明すると、私は悪くないと言ってくれた。どうやら警察の方から聞いていたらしい。そりゃあそうだよね。容疑者の家族として被害はないだろうか。強い正義感を持った人たちが危害を加えないだろうか。今の所何もないみたいだが、今後が気掛かりだ。
私には何も出来ない。それがとても心苦しい。私のせいなのに。オネエ様だけじゃなく、東宮くんたちまで不幸にしてしまった。
綸ちゃんはもう一泊して朝には出て行った。学校はそんなに休めない。寂しかったが仕方がない。私が今にも死にそうな顔をしているらしく、咲那絵さんは残ってくれた。
オネエ様が帰ってくるまでの一週間滞在予定だ。オネエ様のお父様に家事を教えているのだとか。一人でも問題ないとのことだ。北海道弁で『大丈夫』を『なんも』と言うらしい。咲那絵さんの方言が大好きだ。オネエ様に似た笑い方も、温かさも。
それでも心の闇は消えてくれない。オネエ様が帰ってくるまでどう過ごしていたか、忘れてしまうほどに。何をしても自責の念に駆られる。思考が止まってくれない。急に泣けてくるし、胸が苦しいの。
安らぎなんてない。また夜眠れなくなった。眠剤がより強いものになった。寝る意味なんてあるのだろうか。私はもっと苦しむべきなのだろう。オネエ様がいないこの時間を、とてつもない寂しさを……味わい尽くさないと。
悶えて悶えて、後悔して、もがき苦しめばいい。
どうしても耐えられなくなって、何度も腕を傷つけた。生まれて初めてのことだった。咲那絵さんはその度に私を抱きしめる。
オネエ様と同じように、背中を震わせて。痛みを感じないと生きていけないんです。自分を罰せるのは私だけだから。これでいいのです。オネエ様が感じるものに比べれば、ほんの一部に過ぎない。
それに、痛みは苦しみを和らげてくれる。あまりにも耐えられなくなると、やってしまう。自分を守るためにしていることなのかもしれない。仕事にはちゃんと行っている。長袖を着れば見えない。
いつも行っているお客様から心配されることがあるけれど、そんな程度。元々普通の体型だったのに、無理なダイエットをしていると勘違いされる。
食べる量は減ったが、至って健康だ。咲那絵さんのお陰もある。与えられてばかりの私だから、仕事を休むなんてそんな。咲那絵さんは行かない方がいいと言う。大袈裟だ。私は生きる。
生きて罪を償うことにした。あっけなく死んでしまうなんてことは、あってはならない。死とは、ある意味安らぎなのだから。
真っ暗な世界の中にポツンと目の前に誰かが立っている。私と似た長い黒髪を真っ直ぐ下ろした女性だ。暗くてよく見えない。段々と近づいてくる。足を動かすこともなく、瞬きと同時に。
こわい。こないで。声を出そうとしても、喉から出るのは空気の漏れる音だけ。遂にその女性はすぐそばへ来て、私の首を絞めた。苦しい、やめて。いや! 目の前のその人は私だった。
憎しみがこめられるように、ギリギリと強く締めあげられる。「お前なんて一生苦しめばいいんだ」と。ゾッとくるような目つきだった。完全に殺人鬼の目────
「──っはぁ! はぁ……はぁ……夢……か」
久々に見た夢がこれ……か。思考が具現化されたようだった。時間は朝の四時だ。変な時間に目が覚めてしまった。まだ起きる時間ではない。蒸し暑さのせいか、べっとりと汗ばんでいる。
喉が異様に渇いていたため、キッチンへ向かった。窓も部屋のドアも開け放たれているから、咲那絵さんの規則正しい寝息が聞こえてきた。クーラーをつける程暑くはないはずなのに、物凄い汗だ。
私はこんなに汗かきだったっけ。冷蔵庫を開け、冷やしていた水をコップ一杯に入れる。それをごくごくと一気に飲み干した。食堂を通る冷たい感覚が気持ちいい。
もう一度眠るか悩んだが、また嫌な夢を見るのはこわかった。あの首を絞められる感覚は現実のようだった。洗面台へ行って電気をつける。
鏡で首を確認するが、何ともなっていなかった。おかしいな。とうとう私は気が狂い始めたか。目の前に映る滑稽な私を嘲笑う。電気を消して、ベランダへ向かった。窓を開けてサンダルを履く。
まだ外は暗い。風が涼しい。一気に身体が冷えていく。徐々にここが現実だと実感してきた。さあ、部屋に戻ろう。それから嫌な夢を毎日見るようになった。夢と現実の境界線が薄れていくのを感じる。そうして私の長い長い一週間が終わった。
咲那絵さんがオネエ様の車を運転し、退院の送迎に向かう。退院の手続きがあるらしいので、少し時間がかかるって。私も行きたかったけれど、家で待っているように言われた。
何もせずただボーッと帰りを待つ。オネエ様を見て平常心で居られるだろうか。そういう意味では行かなくて正解だったかも。会いたいのに、胸が張り裂けそうになる。逃げ出してしまいたくなる。
誰もいない場所へ行きたい。弱肉強食の自然の中へ。動物たちと暮らして、ただ食べて寝るのを繰り返す。そうすればきっと私の大切な人は幸せになれるはず。
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