第43話 私の罪

 影彦くんはなぜ私を刺さなかったのか。恨んでいる相手は私でしょう。どうしてオネエ様を巻き込むの。話し合いに付いてきてもらったせい? 頭が上手く働かない。耳に入ってこない。世界の彩りが消えてしまった。



 キラキラしていたものがどよんと影を落としていく。どうやって生きていたっけ。なんで生きているんだっけ。それでも私は歩き続けなければいけないの? いや、もうどうでもいい。全てが。崩れ落ちる。バラバラになる。幸せになる権利なんてない。


 私なんて……変わったはずだったのに、全てが元通りに────



 そんなのはお構い無しに話が続けられる。『薫』というワードが聞こえた気がして、「今なんて言いました?」とパッと顔を上げた。何故それに反応したのか分からない様子だった。



「いや、それがね。容疑者が変なことを言うんですよ。『薫くんはもう要らないって言われた』と何度も何度もブツブツと。会話にならないですよ。意味不明なことばかり」



 嘘だ。本当に? 薫くんは薫くんじゃなくて、影彦くんだったってこと? 頭のてっぺんからズドンと電流が走ったような衝撃だった。信じられない。


 だって二人は別人で……



 そんな、私は何も知らずにあんなことを────




「嘘……嘘、嘘……ぁぁああ。ああっ! あああああ!!」





 そう、私が犯した罪は数週間前に遡る。時は八月十三日。四人で海へ行った後のことだった。久々に薫くんと会う約束をしていたのだ。



 ────薫くんとは引越してからも時折電話で話していたが、少し緊張する。距離が遠くなってしまったから、なかなか会えなくなったな。わざわざこちらまで来てくれるそうだ。


 申し訳ないけれど、私は混む電車には乗れない。東京は特にそう。二時間以上かけてまで私に会いたいと思ってくれるなんて、とても嬉しい。



 その日の天気予報は雨だったから、出かける前に折り畳み傘を持って行った。駅のホームで待っていると、薫くんが見えた。前に会った時と季節が真反対だから、服装が違うくらいだった。


 彼が変わらないでいてくれたことに安心する。私たちは昼から焼肉を食べに行く。ランチの豪華なセットを頼み、私が焼いていく。薫くんは輝いた目でお肉を眺めている。なんだか弟ができたみたいで愛らしく思う。



「ね、沙蘭さんは仕事楽しい?」


「楽しいよ。色んなお家に行けて、大体お金に余裕がある人だから。『ありがとう』って言って貰えるととっても嬉しいの。『川瀬さんなら安心できる』なんて言われることもあってね、必要とされるって幸せだね」


「そっか。でも働くって大変だよね。自分に合う仕事が見つからないと辛いだろうし」


「うん、初めての就職先が私には合わなかったんだと思う。だから、薫くんが働いた時は辛いなって思ったら誰かに相談した方がいいよ。なるべく自分のことをわかってくれる人にね。


 私の両親は理解してくれなかったし、『それくらい我慢して当たり前だ』って言われたから。他の人に相談できていたら、変わっていたかも」



「わかった。じゃあそういう時は沙蘭さんに言うよ。沙蘭さんが辛い時は僕を頼って?」



 そう言って私を見る薫くんの目が熱を帯びる。ああ、貴方は私が好きなのね。知っていたけど知らないフリをしていた。私を好きにならないで欲しい。薫くんはさりげなく私を縛ろうとする。



 私が遠くへ行かないようにしているみたいだ。これが気の所為なのか、本当に意図的なものなのかはわからない。その度にこれ以上踏み込んではいけない気がしてならない。もう会うべきではないのかもしれない。



 私は今日を最後にしようと思う。それを伝えに来たのだから。薫くん……貴方は怒るだろうか、悲しむだろうか。好きな人がいるのに、男性と二人きりで会うのは不誠実だ。



 ちゃんと言わないと。これ以上先延ばしにはできない。人を遠ざけるのは辛い。できるならこんなことしたくない。薫くんの為にもなるんだから。しっかりしなさい。



 美味しいお肉を食べて幸せそうにしている。せめて今は楽しくありたい。私はこの焼肉屋さんを出るまで言わなかった。お会計は私が出した。



 わざわざここまで来てくれたんだし、当たり前のことだ。外へ出る頃には、パラパラと雨が降っていた。薫くんは持ってきていなかったようで、一つの傘を二人でさす。


 さあ、今しかない。駅に向かって歩き始めると、私は重い口を開いた。



「私ね。オネエ様が好きなの。ずっと言ってなかったよね。でもね、もう彼以外好きになれない。わかるの。私はずっと彼を思い続けるって。薫くんはまだ引き返せるよ。もっと素敵な人と出逢って……」



「なにそれ……僕は要らないってこと? チャンスもくれないんだ。酷いよ……酷い酷い酷い酷い!! 沙蘭さんの居ない世界なんて……もう考えられないんだ。一人にしないでお願い」



「……ごめん。ごめんね。私が今まで言わなかったから」


「そうじゃない。どうせ叶わない恋なんでしょ? 僕のこと好きになれなくてもいいから……離れないでよ」



 彼の目には絶望が映っていた。私はいつから間違えたのだろうか。彼なら私が居なくても、生きていけると思っていた。そう信じたかっただけなのかもしれない。胸が苦しい。



 私だって辛いけど、彼はもっと心臓が抉られるように痛いのだろう。それでも私は、彼から離れることを決めた。これ以上一緒に居ると、彼をもっと狂わせてしまう。



 私は人に依存して生きている。周りの人もそうさせてしまうんだ。弱い心を持つ人は余計にそうなってしまう。もう手遅れなのだろうか。私が居なくなれば、他に依存先を見つけるはず。



 私が一緒に居ても苦しめるだけ。これが最善なの。今は分からなくても、いつか分かる時が来る。だから私を許して欲しい。



 薫くんはその場に膝から崩れ落ちた。ここで抱きしめるなんてことはできない。私のこの行動が意味をなさなくなってしまう。


 私は「ごめんね」と話しかけるも、爪をガリガリ噛み始めた。全く耳に入っていない様子だった。ブツブツと独り言を呟いている。


 内容は聞こえなかったけれど、その光景は異様だった。そんなに私たち親密な関係だったっけ? いや、電話なんてごくたまにしかしていなかった。恋愛的な話は避けてきたし、どうしてだろうか。


 彼は明らかにおかしい。前からそういう節はあったのに、見ないようにしていたんだ。もっと早くしていればこんなことには……そうじゃない。私は安心できる存在を減らしたくなかったんだ。


 彼のお陰で救われる部分があった。あの時の私は不安定だったし、勇気もなかった。


 必死に声をかける。私の気持ち、伝わって欲しい。


「ねぇ、薫くん、薫くん! 私、貴方に出会えて良かったよ。でもこのままじゃダメなの! ……薫くん!!!!」


 こんなに大きな声を出したのは初めてかもしれない。だけど、どんなに話しかけても届かない。なんで、なんで……貴方に何があったの。私が追い詰めてしまったの?


 貴方は、誰──?


 もうどうにもならない。どうすればいいかわからず、私はその場から立ち去った。



 彼が濡れないように傘をさしたまま。いつの間にかザーザーと雨の勢いが増してしまった。近くのコンビニへ走って傘を買った。家に帰った後、最後にメッセージを長文で送る。理解して欲しい旨が伝わりますように。


 オネエ様に相談すると、明らかに可笑しいと言われた。やっぱりそうだよね。離れたことで何が起きるかもしれない。私は間違っていたのだろうか。オネエ様は大丈夫だと言うけれど、なにか引っかかる。


 これが気の所為であることを願うばかりだ────

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