第35話 穢れ

「この……口答えしやがって! 大人しいヤツだと思ってたけど、これが本性ね。このクソ女ぁ!」


 ガッと胸ぐらを掴まれて揺すられる。怖い怖いやめてやめて……目の前の人はお母さんじゃない。ああ、まただ。フラッシュバック。大丈夫、今は現実だ。息を……ゆっくり吸って吐くの。何も考えるな。


「大袈裟な……」と呆れた声が聞こえる。この声は母じゃない。自分を抱きしめるように、言い聞かせる。辛いね、辛かったね。もう大丈夫……ずっと罵られているようだが、何も耳に入ってこない。


 私は自分を守るのに必死なのだ。息をすることに集中する。深呼吸……ゆっくり。気付けば乱暴に手が離され、ちょうど草が生えていないところに膝をついた。


 ズボンを履いていたが、痛い……少し擦りむいたかも。私は現実に戻ってきた。目の前に立つ同級生はもう関わるなと言い放ち、私を置いて行った。もう……なんなの。


 私は悪いことしてないのに……どうして? そのまま私は泣き崩れた。オネエ様……辛いよ。好きになってごめんなさい。この気持ちをどうか消して欲しい。もう考えたくない……そうだ、傷を洗わないと。



 手袋を外してズボンをめくってみると、幸い血が出ているのは左膝だけのようだ。右も擦りむいているし、ジンジンと痛むが傷を見て少しマシになった気がする。左膝に川の水をかける。


 しみる……冷たいせいで余計に痛い。きちんと受身が取れていたらこんなことにはならなかったかな。運動音痴がここでも影響してくるとは。


 意味があるのか分からないが、傷の周りを抑えて痛みに耐える。水の流れる音が私を慰めているようだ。そういえば……川って海を目指して流れているんだよね。


 私もどこか遠くへ行きたい。誰も私を知らない場所へ、早く行かなければ。私はこの地にずっと住んできた。今でも過去が私を苦しめる。


 いつか旅に出て全く新しい世界で生きていきたい。私がどんなに変わっても、他人は変わらない。今でも親の目から離れられないし、息苦しい。



 これは逃げなのだろうか。此処を出てはいけないだろうか。正しいか正しくないのか、もうよく分からない。オネエ様はそれがいいと言うけれど、主治医とは離れてしまうし……愛奈ちゃんとも少し離れてしまう。


 私の涙も川の水の一部になって流れていく。綺麗だ。光が反射してキラキラ輝いている。生きているみたいだ。自然には人の手で作れないような美しさがある。それと同時にどこか儚くもある。水面に映る自分の顔がユラユラと歪に揺れる。酷い顔。これじゃ帰れないよ。



 ちょこんと三角座りをして、片手を川の中へ入れる。突き刺すような冷たさだ。ガタガタと寒さに震えながら何をしているのだろうか。もうどうでも良くなってきた。帰ろう。私はゆっくりと立ち上がった。ふうっと白い息を吐く。


 膝が痛くて変な歩き方になったが、家まで帰れそうだ。片方だけズボンをまくり上げたまま、私は家を目指した。



 そろそろ着くかという所で、目の前にふらふらと重い荷物を持ったご年配の男性が歩いている。大丈夫かな……「手伝いましょうか?」と尋ねると、「助けは要らん。そんなに辛そうに見えるか? 年寄り扱いしやがって……ほっといてくれ」と言われてしまった。


 そんなこと言わなくても……はぁ。辛いなあ。必要とされないのは。私は結局何も出来ずにご老人を見送った。大丈夫だろうか。家まで見守った方が良かったかな。でも……今の私にはそんな気力が残っていない。もう近くだし帰ろう。


 少しの罪悪感と共に、再び歩き出す。そこまで長い時間を外で過ごした訳ではないのに、すごく疲れた。もう何もしたくない。



 やっと家に着いた。暗証番号を打ってマンションの中へ入る。私は階段をゆっくりと上っていく。キツい……エレベーターが使えたらな。今でも恐怖心を払拭することは出来ていない。息を切らし、やっとのことで三階についた。玄関を開ける前に息を整える。


 ガチャッとドアを開け、中へ入る。私は玄関先に座り込んだ。靴を脱ぐ気力も残っていない。膝から滲み出ていた少量の血が固まっている。生命の力……か。横の壁にもたれかかり、目を閉じる。


 数時間の間に色んなことが起きた。私は久々に起きたフラッシュバックを乗り越えることが出来た。大きな進歩だ。大丈夫、私は強くなった。少なくとも過去の自分よりは。弱い自分を受け入れることで強くなるなんて、変な話だ。もっと早くこうしていれば、実家に居ても何か変わっただろうか。過去をやり直すかと聞かれたら、ノーと答えるだろう。今まで送ってきた人生がなければ、こうして楽しく過ごせなかったかもしれないからだ。


 運命が産まれた時に決まるなら、次の人生はもっとマシな親の元に産まれたいな。できればオネエ様と出逢えたら……それ以上に良いことはないだろう。世界で一番幸せな人生になるだろう。そんなことは考えても仕方がないよな。今が幸せなら……それでいいか。




 目が覚めるとここは……マンションの部屋の中だ。いつも通りの場所。それに……オネエ様が私にキスをした。口内に舌が入れられて、私も応えるかのように舌を絡める。蕩けるくらいに色っぽくて幸せなキスだ。ずっとしたかったことが今出来ている。オネエ様はそのままゆっくりと、私の服の中へ手を入れた。


 くすぐったくて熱くてゾクゾクする。そういえば、気づけば薄着になっていた。いつの間に脱いだのかな。いや、今はそんなことどうでもいい。優しく撫でられた所に意識を向ける。お互い興奮した様子で呼吸を荒くして、私の部屋のベッドへ向かった。


 ドサッと押し倒され、妖艶な表情でオネエ様は私を見つめる。今まで見たことがないくらいのオスの顔と、熱い視線が私をより興奮させた。私はオネエ様の首に手を回し、深いキスを何度も……するところでハッとして目を開ける。あれ? 二度目の目覚めは玄関先だった。なんて破廉恥な夢を見てしまったのだろうか。穢らわしい私の心が見せた夢……? これからどんな顔して話せばいいの? 恥ずかしくて仕方がない。オネエ様に申し訳ないよ。



 夢だとしても、こんなの可笑しい。押し殺すほどに私の恋心が暴れ回る。私の中にとんでもない化け物が住み着いてしまったのかもしれない。

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