第20話 電車

 いつの間にか耳元で深呼吸をする音がして、合わせるようにゆっくり吸って、吐く。それでも苦しさは変わらなくて、次の駅で降りた。


 普通電車に乗って良かった。降りてすぐにオネエ様は私を後ろから抱きしめて、深呼吸を促してくれる。温もりと、安心感に包まれる。


 あれ……もう苦しくない。


 パッと振り向いてオネエ様を見ると、眉間に皺を寄せ私より苦しい顔をしていた。私のために苦しむ姿はとても痛々しい。こんな表情をしてくれる人は初めてだから、どうすればいいのかわからない。


 なんて声をかければいいのか……私がモジモジしていると、オネエ様が「もう大丈夫だからね」と言って、また抱きしめてくれた。


 大きな背中に手を添えて、目を瞑る。オネエ様の匂いだ。もう、この人ばかりに頼ってはいけない。せめて少しの間だけでも、自分の人生を生きて欲しい。私がずっといれば、壊してしまうかもしれないから。


 そうなってしまえば、私は自分が許せなくなる。そうはなりたくない。これは自分のエゴだ。


 それから私は自転車を貰った。ネットの掲示板を使って譲ってもらったのだ。取引相手はとても優しい人だった。たまたま近くに住んでいたこともあり、わざわざ持ってきてくれた。


 年季が入った変速付きの自転車だ。これで通院も一人で行ける。三十分かかってしまうが、いい運動になるから丁度いいだろう。



 早速この自転車で病院へ向かい、無事診察を終えることができた。オネエ様に毎回送って貰うのは気が引けたし、これからは頼まなくてもいい。


 初めて掲示板を使ったがいい取引ができて良かった。帰ろうと自転車に跨ろうとした時、母親の声が聞こえる。私を呼ぶ声が。


 幻聴かと思ったが、声のする方を見ると本当に居た。ずっと連絡がしつこいくらいで何もなかったのに、懲りないな……いつ現れるかわからないし対策の仕様がない。


 どうせ戻って罪を償えとかなんとか、そういうことを言ってくるのだろう。


「貴方……いつまであの男の世話になるつもり? もしかして、付き合っているの? 穢らわしい……大人になれとは言ったけど、こんな……全く。あんなチャラチャラした人を選ぶなんて趣味が悪いわ。オマケに精神科に通っているなんてね。お陰でママ友から心配されたわ。私の身にもなって貰いたいものね。こんなところに通うのはやめなさい! 精神科の先生なんて信用ならないんだからね。気持ちを強く持ちなさい。自分の力で治さないと」


「うるさいな。ほっといてよ! 私のこと奴隷だと思ってたんでしょ。もう縛りつけないで……私にお母さん達は要らない。世話の焼ける居候が居なくなって清々したでしょ!」


「親に向かってなんてことを言うの。お仕置きが必要みたいね。いつからこんな子になってしまったのかしら。今ならまだ間に合うわ。正気に戻りなさい。さあ、帰るわよ」


「痛い!! 助けて!!」


「うるさい、静かにして。聞こえるでしょ……!」


 外面を気にしてきた親だから、これが一番効くでしょう。親が子供に虐待をしているなんてことが知られたらどうする?


 私が大声で助けを呼ぼうとすると、母は私の口を無理やり抑えた。


 精一杯の力で手を振り払うとあの恐ろしい顔で私を睨みつける。一瞬怖気付いてしまったが、そのまま踵を返して歩いていった。


 一人で追い払うことができた喜びが込み上げる。やった。こんなくらいで母は諦めたりしないだろうが、私にとってこの事実は大きなものなのだ。


 清々しい。


 大きく息を吸い、美味しい空気が肺の中を満たしていく。私はそのままルンルン気分で自転車を漕いだ。家に帰り、オネエ様へ報告すると一緒に喜んでくれた。


 これでまた暫く何も起こらないことを願うばかりだ。




 次の週、十二月の半ばになった。休職してから一ヶ月が経とうとしている。結局何も進歩はなく休職期間が伸びることになった。



 今日はそのために職場へ電話しなければならない。一ヶ月振りということと、迷惑をかけているという事実にどうしても電話を躊躇ってしまう。


 もう要らないと言われるかな。


 私はあのオネエ様と出会った公園で一人ベンチに座って悶々とする。十分以上気持ちを作るまでに時間がかかった。


 よし、掛けよう。


 私は意を決して部長に電話を掛ける。プルルル……と呼び出し音が何回も鳴って、このまま出ないで欲しいと思ってしまう。結局そうなればまた掛かってくるだけなのに。『もしもし』部長の声だ。


「もしもし、あの、川瀬です。ご迷惑おかけしてます」


『うん、体調は?』


「体調はいいんですけど、電車にも乗れなくなってしまって。パニック発作が出て怖くて」


『そうなんだね』


「休職期間が伸びてしまいました……また書類送ります。本当に……すみません」


『はーい了解です。では』


 良かった、怒られなかった。私の分まで仕事をさせられている人たちが大勢いるはず。仕事が出来ない私だから、そこまで必要かと言われたらそうでもないか。


 もう辞めていいと思われているのかな。必要ないよって意味なのかな。正直同じ職場でまたやって行ける気がしない。転職も考慮すべきだと主治医の先生が言っていたし、その方がいいのかもしれない。


 でも……散々休職しといて辞めるなんて、卑怯かな。どうすればいいのか分からない。ダメだ、一人で考え込んでしまったら無限ループに入ってしまう。帰ろう。


 私は公園を出て歩き出した。少し歩いたところで、姥川の方からこちらに人が曲がってきてぶつかりそうになる。


 危なかった……よろけたところでガシッと肩を掴まれ、寒気がする。


 何この人……フードを深く被ってマスクをしていて顔が全く見えない。


 なんだか不気味で、「川瀬 沙蘭」と呟いた。


 なんで知ってるの?


 もしかしてこの人がメッセージや電話を何度も送り付けてきた人なのだろうか。

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