第10話 ただ残ったのは怒りだけ

 オネエ様が私を呼んだ。はっとなって横の部屋の方を見ると、彼が立っていた。少し驚いたような、悲しいような表情で。私はどう見えていたかな。狂ったように、呪いをかけるかの如く書き殴っていた姿は、恐ろしく見えただろうか。


「どうしましたか?」


「眠れた?」


「はい、眠れました」


 オネエ様は優しい笑顔を見せてくれた。私が何をしていたのか聞かないのかな。聞いちゃいけないと思ったかな。


 打ち合わせが終わって出てきたようだ。私は何故こんなことをしているのか伝えた。見てもいいか聞かれたので、見ない方が良いかもしれないと言ったが、それでもオネエ様はノートを手に取った。ゆっくりとノートへ視線を落とし、じっくり読む。少し恥ずかしかったけれど、私を知ろうとしてくれてすごく嬉しい。  


 私はオネエ様の表情を、じっと見ていた。時々眉間に皺を寄せ、真剣に読む姿が愛おしかった。彼なら私の痛みを分かってくれる。辛かったねって、抱きしめて欲しい。


 いつの間にか読み終わっていて、ぱっと視線を私に向けて微笑む。私も笑い返すと、「無理に笑わなくていいのよ」と言って私の頭を撫でてくれる。



「今は悲しくないです。残ったのは怒りだけ」


「それでいいのよ。恨んで恨んで、恨みなさい」



 私のこの感情は、間違っていないと思えた。友達や他人に親だから感謝しなさいと、育ててくれたんだからと言われることもあった。でもオネエ様は絶対そんなことは言わない。そんなの親として当たり前で、無条件に愛すべきだと、そう言ってくれる人だ。



 すっかり忘れていたが、親からものすごい量のメッセージが来ていた。スマホを取り出すと、案の定母が怒り狂っている。



『あんなチャラチャラした男と出て行くなんて』



 なんて悪口をつらつらと。母は外見で全てを判断するような人だ。どれだけオネエ様が良い人だとしても、理解して貰えないだろう。


 私の事を言われるよりもっと胸が苦しくなる。私を救ってくれた大切な人を、貶されるのが辛い。無視するべきか、返すべきかわからなくて、オネエ様に画面を見せた。


 私に対して悪く言うメッセージだけが見えるように。



「これが子供に対する言葉なの?! アタシが代わりに返事送りましょうか?」


 私は首を横に振った。無視をするとどんな方法を使ってでも会いに来るのではないかとオネエ様は言った。だから、私はあしらう様に適当に返した。電話も何度も掛かってきていて、返信をしたあと再びスマホが震える。出ると、怒鳴り声が耳に響いた。


『貴方! 出ていった挙句に無視をして、さらにはあんな返事?! 親に感謝も出来ないで、なんて子なの!! いいからさっさと戻ってきなさい!! 迷惑ばっかりかけて。罪を償いなさい!! 貴方にどれだけのお金と労力がかかってると思っているの?!』


「……あのさ。もう関わりたくないの。疲れたの! もう、私の人生から出てって! 出てってよ!!」


 その勢いで私は電話を切った。また掛かってきたけれど、電源を切ってバタンと机に伏せて置いた。視界が滲んでいく。いつからこんなに涙脆い人間になってしまったのだろうか。


 親に言い返すのに、とても勇気がいった。言えたことが嬉しくもあり、なぜこんな思いをしないといけないのか。そんな複雑な気持ちになった。胸が締め付けられるように痛い。心臓が抉られるような、そんな感覚になった。



 私は横に座るオネエ様の方を、上半身だけ向ける。捻った腰が痛かったけれど、そんなのどうでも良かった。ぎゅっとオネエ様の二の腕辺りの袖を掴み、肩におでこを当てて、わんわん泣いた。オネエ様は黙って私をそっと抱きしめてくれた──。



* * * * * *


「これ誰が印刷したの? 縦と横間違ってるんだけど」


「あっ、それ……私です」


「はぁ……何枚刷るつもり? 普通1枚確認してからやるでしょ」


「すみません」


 また怒られた。怒られない日なんてない。私は仕事でも家でも、立場は一緒。


 電話が鳴ったが誰も出る様子は無い。私は渋々電話をとった。


「お疲れ様です、事務川瀬です」


「お疲れ様です〇〇です〜。佐野さん居ますか?」


「えーっと……少々お待ちください」


 保留ボタンを押し、佐野先輩の名前を呼んだが居なかった。再び受話器を取ると電話は切れていた。

 もしかして、保留ボタン押し間違えたかもしれない……やってしまった。どうしよう。


 誰から電話来てたんだっけ。駄目だ、聞いてたはずなのに、どうしようどうしようどうしようどうしよう──




 重い瞼をこじ開けると、またソファの上にいた。どうやら眠ってしまったらしい。あれは、夢……? それにしてはリアルな夢だったな。



 時刻は十八時を示していた。ガバッと起き上がるとキッチンから声がした。



「おはよう」優しいその声色に安心感を覚えると共にご飯を作らないと。そう思って、痛む頭を無視してふらふらキッチンへ歩いていく。オネエ様が駆け寄ってきて、私の両肩を優しく掴んだ。


「こらこらっ! まだ休んでないとダメでしょう?」


「ご飯、今度は私が作りますから」


「もう、本当に……自己犠牲で役に立とうとしなくていいの。また今度お願いするから、今は寝転んでいてくれるかしら?」


「すみません……私、迷惑ばっかり」


「それ、禁句って言ったでしょう? 簡単なものしか作れないけど、待っていて頂戴ね。あ、そうだ。これ。ココア入れたんだけど、飲む?」



 世の中にこれ以上優しい人はいるのだろうか。いいや、きっと居ないだろう。そんな人が私を気にかけてくれている状況に、とても申し訳なく思う。なんにも出来ない私なのに。もっと救う価値のある人は幾らでもいると思う。そんな罪悪感に苛まれるのだ。これはどうしようも無い。



 今の私には、こんな卑屈な考えしか持てないのだから。温かいココアを少量口に含むと、とっても甘かった。マシュマロが浮かんでいて、こんな飲み方したことなかった。こんなに甘くて美味しいんだ。



「これ以上太ってはいけないから甘いものは控えて、健康な食事をとるのよ」

 なんて言われ続けて、好きなものが好きな時に食べれなかった。



 もう母はここにはいない。好きなものを食べて、飲んで、楽しむことが出来る。自由にしていいんだ。キッチンを見ると、お鍋のいい香りがした。簡単なものって言って、お鍋なんて。贅沢で最高だ。オネエ様は私が見ていることに気付き、目尻を下げて微笑んだ。



「もう少しかかるから待っててちょうだ〜いっ」

 といつものように明るく声を掛けてくれる。楽しそうに鼻歌を歌って、テレビに映るスターのようにお玉をマイク替わりにして。思わずふふっと笑みが零れて、「また笑った!」って大袈裟に喜んでくれた。それに釣られて二人で笑いあった。


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