第9話 嫌悪
いつもと違ってハキハキと男性らしい話し方をする彼は、とても頼もしく見えた。私に触れるその手は汗ばんで震えていたが、真っ直ぐと私の親を見据えている。
凛として、物怖じしない表情で。いつの間にか涙は止まっていて、私より頭一つ以上高い彼の顔はそんなだった。母は外面を特に気にするので、こうなったら私を引き止められないだろう。
両親を見ると、共に打って変わって何にもなかったみたいにニコニコと笑っている。これは見慣れた光景だ。
「もちろんです。貴方が最近沙蘭ちゃんと会ってる方? 娘がさっきは暴れてどうしようかと困っていたんですよ。お父さん、持ってきてくれる?」
父は「もちろんだよ」と言って私のキャリーケースを持ってきて、オネエ様に渡した。私が暴れたってことにするんだね。もう二度と戻ってこないよ。
そんな嘘をつかれても、悲しくないしなんとも思わない。せいせいする。今要らないものを一気に捨てたような、清々しい感覚になっているから。
美しいオネエ様は、「ありがとうございます」と返事をして、外へ連れ出してくれた。私をおんぶして、キャリーケースとカバンも持って。
重くないかと聞いても、「むしろ軽いくらいよ?」なんて平気な顔して歩いていく。昨日下ろしてくれた道路の端に、赤い車が停めてあった。
これに乗って家に向かうんだよね。早く着きますように。とにかくもうここには居たくない。
オネエ様は私を下ろして助手席に座らせ、荷物も乗せてくれた。バタンと運転席に乗った彼は、今にも泣きそうな潤んだ目で私を見た。
「遅くなってごめんなさいね……」と言った彼は、泣くまいと我慢して、鼻をすする。
「オネエ様が来てくれなかったら、どうなっていたか。また助けられちゃいましたね。本当にありがとうございます」
彼は苦しそうに笑って、こんなところにずっと居るのは良くないと言わんばかりに、直ぐに車を発進させた。
オネエ様が何故辿り着けたかというと、私の住む場所を予想し、たまたま『川瀬』と書かれた表札を見つけ、一か八かで当たったのだそうだ。
その行動力が無ければ不可能だっただろう。神奈川県は同じ苗字の人が多くいる訳ではなかったことも要因だった。手が汗ばんでいたのは、走ってきたからなのだろうか。
私のために一生懸命走って探し当ててくれたのだとしたら? オネエ様にこんなことをさせてしまった。
私が上手くやれていたら……何てことを考えずにはいられない。迷惑ばかりかけて、愛想をつかされたら、私はどうすればいいだろうか。
こわい。もう一人になりたくない。すっかり私はオネエ様に依存してしまっている。もう充分すぎるほどに好意を受け取っているのに。
でも今はこの罪悪感よりも実家から出た開放感が徐々に大きくなっている。
家に着くまでゆったりとした洋楽が流れ、隣から聞こえる鼻歌を聞きながら外を見る。まるで映画のワンシーンみたいだ。助け出されて家を出て、新たな生活が始まる冒頭部分のよう。私が物語の主人公なら、ここからが始まりだ。私の人生が今、始まったのだ。
オネエ様はマンションに着くと、再び私を背負って中へ入る。エレベーターが何故かとても怖く見えたので、階段で三階へ向かってもらった。申し訳ないしもう自分で歩けると言っても聞かなかった。
少し頑固なところがあるのかと、新しい一面が知れて嬉しい。そのままリビングの奥の、窓際に置いてあったソファへ寝かされた。
フワッと香る優しいオネエ様の香りに安心感を覚える。今日はクライアントとの打ち合わせがあるらしく、「隣の部屋にいるから安心してちょうだいね」と言われて1人になった。
あんなことがあったから、すごく疲れた。瞼が次第に重くなり、いつの間にか眠ってしまった──。
目が覚めると、目の前のテーブルにお粥が置かれていた。風邪じゃないんだけどな。そういえば今日何も食べていなかった。時間を見ると十四時で、お粥の前には置き手紙が置いてあった。
隣の部屋から壁越しに話し声が聞こえた。オネエ様の声だ。良かった、どこかへ行ってしまったのかと思った。
手紙には『温めて食べてね♡ 料理上手じゃなくて、こんなのでごめんなさいね』と書かれていた。
オネエ様の字、初めて見た。綺麗な先生みたいな字だと思った。レンジで温め、スプーンで一口すくい上げる。湯気が天井に向かって昇っていく。
家族以外の手料理は初めてかもしれない。私は猫舌だから、念入りにふーふーと息を吹きかける。ゆっくりと口に入れると、卵と出汁の優しい味が広がった。
美味しい。心も身体も中からじんわりと温まっていく。ぼーっとした頭で笑いかけてくれるオネエ様の顔を想像する。オネエ様は料理が苦手なんだな。
なんでも出来ちゃう人なんだろうと勝手に思っていた。私が家事をすることで少しは役に立てるだろうか。手料理を美味しいと言って頬張って、お代わりまでしてくれたらいいな。
お粥を食べ終わり、お皿を洗う。作るために使用したであろう鍋が干されている。夕食は私が作ろう。私はリビングへ戻り、置いてあった自分の荷物から、ノートとペンを取り出す。キッチン横のテーブルへ座り、親がした過去の理不尽な行動を書き出していく。
あの精神科受診から始めた。親の呪縛から解き放たれるためには、必要なことらしい。親が自分にしてきたことを書き出していく。最初は書きながら悲しくてたまらなかったけれど、今は怒りが湧き上がってくる。
腹が立って、ペンを持つ右手に力が入る。めくるとボコボコ凹凸が目立つくらいに、強く、強く。あの倉庫と化した部屋に何度も閉じ込められ、歯向かうと物を投げられ、産まなければ良かったと言われた。風邪を引いた時は嬉しそうに看病してきて、それがとても嬉しかったのを覚えている。
ずっと顔色を伺って生きてきた。愛して欲しかった。でももうそれは無理な話だ。私は親の存在を消して生きていくことを決めた。ほっといて欲しい。これ以上関わりたくない。
何枚も何枚もページを消費して、恨みを綴っていく。貴方達のせいで、私は人生を狂わされた。愛する子供なんて思ったことがないだろう。ただの人形や奴隷としてしか見ていなかったのだから。
20年以上私を拘束し、操って楽しかった? 親を選べたなら、絶対に選ばなかった。次に生まれ変わるなら、こんな親の元には産まれたくない。二度とごめんだ。
「沙蘭ちゃん?」
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