第7話 耳障り
私はこれから夕日を見ると、オネエ様を思い出すだろう。今日のこの空を、私は忘れないだろう。そうして気付けば私が見慣れた場所に来ていた。家を知られるのは気が引けたから、少し歩いて帰ろう。
もういずれ来ることもなくなるだろうし、知らなくても問題ないよね。実家だし、さすがに他人にホイホイ教えるのは違うと思った。例え嫌な親でも、それくらいの気遣いは必要だよね。
──この選択があんな事になるなんて、この時の私は考えもしなかった。
「この辺でもう大丈夫です」
「わかったわ。真っ直ぐ帰るのよ? 沙蘭ちゃん可愛いから心配」
「ふふ、大丈夫ですよ! なーんにも心配いりませんから」
「そう? 家に着いたら連絡してちょうだいね?」
「もちろんです! じゃあ、また」
「はーい。また明日」
明日も会えるんだ。いつ会えるか聞けなかったけれど、今聞けた。私の気持ちを察してくれたのだろうか。帷さんを乗せた真っ赤な車が走り去っていく。
夕日の中へ入っていくようで、神秘的だった。こんな何気ない世界も、美しいのだと思えるようになったのか。
「お帰りなさい」
今日の母はいくらか明るい声をしている。よかった。このまま何も起こらないといいな。私は手を洗って、そのまま2階へ向かう。母の鼻歌が聞こえてきて、階段を上り部屋へ入った。
早速私は家を出る準備を始めた。いつも家族旅行で使うキャリーケースをそっと出して、詰めていく。部屋のドアは鍵が掛けられるから、一応閉めておいた。服と……化粧品と、髪を巻くコテ。
そろそろご飯を作る時間になったので、ケースを奥にしまって1階へ降りる。
「お母さん、今日は私が作るね」
「ありがとう。私も手伝うわよ」
「うん。何にしよっかなー……」
「カレーはどう?」
「いいね。じゃあ決まり」
何故機嫌がいいのか、それはいつもよくわからない。こんな状態でも急に怒ったりするし、爆弾処理をしている気分になる。いつ爆発するかわからないから、常に気を張っていないといけないのだ。
でも今日は怒られてもなんとも思わない自信がある。
母が野菜の皮を剥いて、私が切っていく。ある程度終わったらお肉を焼いて、母が横で切る。
大体母は私が作ると言っても一緒に作りたがるから、二人での作業には慣れている。何事も私に任せようとしないその姿勢に、反吐が出る。
「最近散歩でどこ行ってるの?」
「んーとね。決まってないかな。色んな所を歩いて探検してる」
「……そう」
なんて信じているのか信じていないのか、母はよく分からない返事をした。
「お母さんね、明日ママ友と食事に行ってくるから」
「何時に行くの?」
「そうね……十二時とかかしら」
「わかった。楽しんできてね」
「沙蘭ちゃんが体調崩して仕事休んでることにするから」
そうだよね。先生が言っていた。精神疾患は心の病気じゃないのだと。脳の病気なのだ。だからあながち間違ってはいないのだが、母はそういう意味合いで言うつもりは無いのだろう。
分かっていたけれど、何処までも理解がない親だなと思った。いつもの私ならここで哀しくなるところだが、今はなんとも思わない。
カレーができ上がり、三人で食べる。テレビを見て母がそれについて話すのを二人で聞く。今日が三人で食べる最後の夕食になるだろう。
私は食事を終えて部屋に入り、帷さんにメッセージを送ろうとスマホを見た。
「ひっ……!」
やる事があってスマホを見ていなかったのだが、私が帰ってきた時間に『おかえり』といつもの知らない人から。本当に全部見てるんだ。周りをキョロキョロ見渡すも、何も変わらない部屋だった。
『やっと見てくれた。何処へ行くつもりなんだい?』
幸い帷さんの家に行くことはバレてないみたい。よかった。知られてしまったら、帷さんに迷惑がかかるもの。
『もしかして、あのオネエの所にでも行くつもりなのかな?』
なるべくリアクションを取らないように抑えて……ゴクッと固唾を呑んだ。危ない、声が出るところだった。
もしかすると盗聴器があるのかもしれないから、家の中で電話するのはやめよう。まだしていないのが幸いといったところだろうか。
スマホになにか仕掛けるのは不可能だろうけど、何かしらの方法でここへ侵入し、盗聴器を仕掛けたのかもしれない。ここを出れば変わるだろうか。
急いで帷さんにメッセージを送る。
『オネエ様、明日母がお昼の十二時から不在です! ママ友と食事らしいです』
『なら早速明日こっちへ来る?』
『いいですか?』
『もちろんよ! もう受け入れる準備は出来てるから。といっても、そこまですることはないんだけどぉ〜』
『ありがとうございます! 荷造りしますね』
私は返事が来ているのを確認して、奥にしまっていたキャリーケースを再び出し、どんどん入れていく。最低限のものだけにして、あとはもの達に申し訳ないけど置いていこう。
元々そんなに多くないからよかったが、詰め終わると中が一杯になった。続いて大きめの手提げカバンに持ち運びの充電器や日焼け止め、リップなどを入れていく。これでよし。意外とすんなり終わったな。いざ出るとなると、呆気ない感じがする。
そして迎えた次の日の朝。いつもは六時半に起きていたのに、睡眠薬を飲むようになって怠くて起きるのが辛くなった。時間を見ると十時になっていた。ぼーっとした頭を覚ますため、洗面台へ下りる。
浮腫んだ自分の顔が、すごく不細工に見えて驚いた。誰かと思った……朝からホラーじゃん。私は蛇口をひねり、冷たい水でバシャバシャと顔を濡らす。スキンケアをして、歯を磨いていると、ヌッと現れた母に話しかけられる。
「沙蘭ちゃん最近楽しそうね」
「え、そお?」
私は歯を磨く手を止めて、口から涎が溢れないように返事をした。辛い時は機嫌が悪いと言ってきて、楽しそうにしていると嫌そうな顔をする。娘の幸せが嬉しくないのか、このバカ親は。
おっと、口が悪くなっちゃった。私の性格も歪んできちゃった? しかし寝起きのこんな顔に向かって、最近楽しそうにしているなんて。なんだか不思議だ。
「仕事を休んだのがそんなに嬉しいの? 働いてない事は恥ずかしいことなのよ。結婚すれば別だから、このまま働けないならいい男見つけてさっさと嫁に行きなさいね。子供を作るまでが貴方の使命なんだからね」
「はーい」と小さく、そして少し明るい声色で返す。
「ちゃんと分かってるの?! その気の抜けた返事は何?!」
「ごめん。何にもないよ?」
「ふん。いい? 沙蘭ちゃんはせっかく二重にして可愛くなったんだから、それなりにいい相手が見つかると思う」
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