第2話 白い天井

「大丈夫ですかー? お名前言えますか?」


 気づけば私はベッドの上で横たわっていた。肩をトントン叩かれる。目を開けると、看護師さんらしき人が私に声をかける。


「は、はい。川瀬 沙蘭です」


 あれ、あんなに苦しかったのに今は何ともないみたい。ここは病院で、救急車に運ばれてきたらしい。その後も質問は続き血圧などの簡単な測定や、血液検査やら心電図やら色々と検査された。仕事に連絡していないと言うと、それに関しては心配ないという事だった。40代くらいの優しそうな男性医師が、私と母に告げる。


「この病院は精神科医がいないのですが、恐らく精神的なものでは無いかと考えています。身体検査で異常は見られませんでした。知り合いのクリニックに紹介状を書きますので、そちらに行っていただけますか?」


「精神科……?」


「身体的な異常は何も見当たりませんでした」


「そうですか。とにかく何も無いんですね。では帰らせていただきます。先生、娘がお騒がせ致しました。行くわよ沙蘭ちゃん」


「う、うん……」


「少し沙蘭さんとお二人で話がしたいのですが」


「そうですか。分かりました。私はここで待っています」


 私は違う場所へ案内され、医師と2人きりになった。周りには誰もいない廊下の長椅子に座る。何を話すのかな。


「川瀬さん。精神疾患であっても何も悪いことはないです。きちんと治療しないともっと大変な事になります。紹介先の精神科医はとても優しくて丁寧だから、安心してくださいね。お母様は理解がないかもしれないから、1人で行った方がいいですね。行けそうかな?」


「はい、行けます」


「こんな事しか出来なくて申し訳ない。娘と同じくらいの歳だからついついお節介してしまった。今日行って休職されるのが最善です」


 四十代だと思っていたが、両親と同じくらいなんだ。私の親も若く見えるから、さして驚く事では無かった。


「休職……ですか」


「仕事に行こうとして発作のようなものが出たという事は、原因が仕事にある可能性が高いです。私は精神科医では無いので、クリニックで詳しく事情を話して診断書を貰って休職してください」


「わかりました……ありがとうございます」


 他に患者さんが一人いたけど、重症ではないみたい。放っておいてよかったのか分からないけれど、母と離れて話しができて良かった。先生はいつも外面がいい母の本質を見抜いたのだろうか。母はきっと精神科には連れて行ってくれないだろうし、その方がありがたい。電車に乗って帰る間、母は黙っていた。


「ただいま」


「おかえり、どうだった?」


 家に着くと、テレワークしていた父が出迎えた。一応心配そうな顔をして。近所の人達は理想の家族なんて言うけれど、笑わせてくれる。


「救急外来の先生がねぇ、沙蘭ちゃんが精神病じゃないかって言うの。恥ずかしいったらないわ」


「そうか。身体は何も異常がなかったのかい?」


「そうなのよ。精神病なんて、気持ちの問題でしょう?」


「うん、そうだね。明日から仕事頑張ればいいさ」


 家に味方なんていない。気持ちの問題でどうにかなっているなら、私はこんな事になっていないだろう。辛いのに、わかって貰えないんだ。それが私をとてつもなく孤独にさせた。息が詰まるようで、何も聞こえない。音は聞こえるはずなのに、入ってこないのだ。


 私は手を洗って、2階へ逃げ込んだ。昼ごはんを食べて、クリニックへ行こう。何も持っていなかった私は、渡された紹介状をポケットに入れていた。丁寧に折り畳んだ封筒が、形を崩している。シワもなかった封筒が、醜くなってしまった。


 私の惨めなこの状況のようだった。いつから壊れてしまったのかな。仕事にも行けない私を、誰が必要としてくれるの?


 昼ごはんは三人で食べる。二人が放つ音が私の耳を、心を突き刺していく。


「せっかく異動になったのに、こんな事になるなんて。これ以上迷惑かけないようにしないとダメよ?  ほんっっと情けない。こっちが恥ずかしくなっちゃうわ」


「そうだよ。今日いきなり休んでしまったんだから」


「はぁ。また黙っちゃって。いつになったら大人になるのかしら」


「社会人になって半年以上経つんだ。社会人として責任を持って行動しないと」


 もうやめて。私をこれ以上責めないで。ここから逃げ出したい。ご飯の味がしない。朝何も食べてないから食べないと……私は無理やり口に入れて飲み込む。なんだろう、喉が詰まるように苦しい。お昼もほとんど食べられなかった。


「ちょっと出掛けてくる」


「何処に行くの?」


「散歩」


「そう。困った子。あれだけ騒がせておいて、散歩。平和でいいわね」


 私は母の顔も見ずに、足早に家を出た。外に行くのがあんなに苦しかったのに、仕事に行かないとなるとこうも楽なのか。今や外の方が息ができるなんて。




 クリニックは歩いた先の駅近にあった。中へ入るととにかく白い部屋で、受付に話しかけて順番を待つ。くしゃくしゃになってしまった紹介状を渡すのは、少し恥ずかしかった。他に三人くらい患者さんがいた。30分程度待つと名前を呼ばれて、診察室へ入る。


「どうぞ、そっちに荷物を置いてね。紹介状を見させてもらったよ。大変だったね」


 先生は七十代くらいのおじいちゃん先生だった。終始ニコニコして、頷きながら話を聞いてくれた。横にいる看護師さんが補助を行っているようだ。仕事や親の事、私の子供の頃の話まで全部質問され、長い時間話していた。睡眠薬も出してくれるそうだ。


「仕事のこともそうだけど、親にも原因があるね。休職期間は取りあえず1ヶ月にするけど、様子を見ながらやって行こうか。無理そうだったら伸ばせばいいから。


 毎日できるなら散歩するといいよ。川瀬さんはずっと周りに気をつかって仕事も頑張って、立派だと思うよ。


 だから自分を責めることはしないで、頑張ったねお疲れ様って言ってあげてね。毎週ここに来て、辛いこととか全部吐き出してゆっくりやって行こう」


「ありがとうございます……本当に……っ」



 急に涙が溢れてきた。優しくされたら泣いちゃうよ。あったかい人だなぁ。自分を褒めていいんだ。私、頑張ったんだ。


 先生はそっとティッシュの箱を机の上に置いてくれて、ただ微笑みかけてくれた。

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