矛盾の愛と虹色の空

やーみー

序章

第1話 出来損ない

 家に帰りたくない。安らぎの場所といえばお風呂くらいだろうか。重い足取りで駅からの帰り道を歩く。

 着いてしまった。私はため息をつき、玄関を開けた。


 家に着くと父はいつも通り自室に籠っていて、母はテレビを見ながらリビングに座っている。置いてあったおかずをレンジで温め、ご飯を盛る。


 母も自室があるのに、何故同じテーブルに座っているのか。聞きたくても喉につっかえて言葉が出ないのだ。怒られるだろうから。


「今日はどうだった?」


 母親はテレビから目を離さずに、話しかけてきた。母は外面がよく、綺麗な人で50代なのに10歳くらい若く見える。

 白髪が目立ってきたから、白髪染めをして茶色に染めた髪を後ろで1つに結っている。友達を家に呼ぶと、


「沙蘭のお母さん綺麗だね。優しいし、親を交換して欲しい」

 なんてよく言われたっけ。そんな事ないのに、本当の事を話しても信じて貰えないのだ。


「いつも通りだよ」


「そう」


 毎日同じ質問をされ、同じように返す。それで母は満足気に微笑んでくれる。私は母の機嫌を損ねないようにする事に慣れてしまった。怒り始めると誰も止められないし、疲れるから。


「ねえ」

 いつもはこれで終わるはずの会話が、母によって続けられる。


「何?」


「もう異動なんてしないで、そこで頑張りなさいね。3年くらいは働かないとダメよ? 産まなきゃよかったなんて、思わせないでね。私を失望させないで。


 沙蘭ちゃんは1人で生きていけないし、何も出来ないんだから。仕事くらいしないとね〜。 社会のお荷物になっちゃダメよ?


 そろそろ大人になってもらわないと困るわ本当。いつになったら自立するのかしら」


 外では柔らかい話し方だが、家の中ではまくし立てるように早口で、耳がキンキンする。なんの根拠でそう言うのか分からないけれど、母親の言うことは絶対だ。


 急に食欲がなくなって、ご飯を残した私は自分のお皿を洗ってすぐに自室へ入る。物が少なくて殺風景な部屋。基本的な家具と、ベッドの上に一つ大きな抱き枕があるくらい。


 いつも私はあるインフルエンサーを見て元気を貰っている。私の憧れの存在、オネエ様。オネエ様とは皆が知る俗に言うオネエ、様だ。女の人のような話し方が特徴的な男性。自由に自分をさらけ出す姿が、私には無いものを持っていて輝いているように見える。


『みんなぁ〜元気ぃ〜? 皆の大好きなア・キ・ラ、おネエ様よぉ〜! 今日も皆のお悩み相談しちゃおうかしら!』


 彼は皆のお悩みを持ち前の明るさで励ましていく。私もコメントしてみたいけど、今は見ているだけで十分。お風呂でも通勤中でも、ずっと見ていられる。


 辛い毎日を耐えられるのは、彼の存在があってこそなのだ。動画を見ている時間は、仕事の事を忘れていられる。明日も早いから、お風呂に入ってもう寝よう。



 私はお風呂を済ませると、スマホに不在着信とメッセージが来ていた。まただ。非通知で毎日かかってくる電話。怖くて出たことは無い。誰かも分からないし、この不在着信とメッセージ以外は何もないからどうってことないのだろう。


 メッセージを見ると『今日もお疲れ様。いつも見てるよ、僕のお姫様』だって。気持ち悪い。お姫様なんておかしいし、何のためにこんなことをしているのか分からない。相談する相手もいないし、ただの嫌がらせを一々気にしている人だと思われたくない。被害者ぶって自慢しているように見えるかもしれないし。


 私は何も見なかったかのように大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながら布団に潜り込む。全く眠くならない。仕事のことや、母親に言われたこと、メッセージのことが頭から離れないのだ。


 最近寝れないことが続いているのだが、この日は一睡も出来なくて、朝になってしまった。何故だか仕事に行きたくない。気力もわかなくて、ベッドから身体を引きずるように起き上がる。


 怠くて、身体がとてつもなく重い。このまま溶けていって倒れてしまいそう。無理やり顔を洗ってリビングへ行くと、母がお弁当を作っている。


「おはよう」


「おはよう。眠れた?」


「ううん。一睡も出来なかった」


「そう。仕事は行くわよね? 寝れないから休むなんて、馬鹿馬鹿しい」


「……うん」


 食欲がわかなくて、朝ごはんに手がつけられなかった。


「食べなさい」


「食欲ない……ごめん」


「食べなさい! 寝れていないんでしょう?  倒れられたら私が悪者になるんだから! 言うことが聞けないの?!」


「ごめん」


 ああ、もう。食べないといけないのか。また怒らせてしまった。言うことを聞かないなら出て行けと、追い出されてしまう。このまま私が一人で生きていける筈がない。無理やり喉へ流し込むが、喉が詰まったように苦しい。


 私が食べ始めると、


「食べるなら最初から食べないなんて言わなければいいのに。はぁ……本当に手がかかるわね……」


 と呆れたように吐いてキッチンへ戻った。全て食べ終えた私は2階へ上がる。うう、気持ち悪い。吐きそうだけど、吐けない感じ。


 全部出すことが出来たら楽なのに。ブラウスとズボンに着替えてメイクして、アキラオネエ様の動画を見る。あー、もう行かないと。そう思って立ち上がり廊下に出た瞬間、



 突然──




「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ」



 苦しい! 心臓がバクバクとこれでもかというほどに、必死に動いている。息が出来ない。吸っても吸っても楽にならない。胸が誰かに押さえつけられているみたい。


 ドタドタと壁にぶつかり、座り込んだ。誰か、助けて……お母さん。このまま私は死んでしまうのだろうか。嫌だ、こわい、まだ死にたくない。



「何?! さらちゃーん?」


 母が私を呼ぶ声がする。声を出す余裕もなく、母が階段を駆け上がってきた。


「もう、大袈裟なんだから……何よ。そんなに仕事行きたくないの? さっきまで普通だったじゃない。よく噛んで食べなかったの? もう、情けないったらありゃしない。仕事に遅れるわよ。貴方はいつも────」



 私は息をする事に集中していたせいか、何も頭に入ってこなかった。視界がぼやけて、滲んでいく。



 苦しさは変わることはなく、



 母の声が



 遠


 の


 い


 て



 い



 く



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