第23話 凡庸な言葉を君に
そうして充実した日々を送っていたある日のこと。バイオレットの出航日からおよそ一ヶ月半が経った頃のことだった。緑丸は首の周りや脇の下、脚の付け根などに違和感と痛みを感じ床に臥せっていた。
はじめは、少し休んでいれば治まるかと思ったけれども、たちまちのうちに体が熱を持って動けなくなってしまった。
身体中が痛くて苦しい。それをたどたどしく菖一に伝えると、すぐさまに医者が呼ばれ、父と母が見守る中診察を受けた。
ぼんやりとした意識の中で緑丸の耳に医者の言葉が入ってくる。
「これは、このところ巷で流行っているペストという病のようです。
覚悟をしておいた方がいいかもしれません」
その病は、どの程度危険なものなのだろうか。今たしかに、身体中が痛くて言葉を喋るのもつらい状態だ。けれども、麻疹のようにじっと耐えていればやり過ごせるのではないか。そう思った。
けれども医者はこう言った。
「この病にかかると、数日の命です。
一応薬はありますが、今のところ確実な治療方はありません」
それに続いて、父と母が嘆く声が聞こえてきた。
いまここで死ぬわけにはいかないと緑丸は思う。あと数日でもいいから生きたいとそう思った。もう少しでバイオレットが日本に来るのだ。それまでなんとしてでも生き延びなくてはいけない。
たしかに今は死んだ方が楽だと思うほどに苦しくてつらい。けれども、死にたいとも消えたいとも思わなかった。
痛みと熱で意識が朦朧とするのに眠ることもできず、一晩を明かした。緑丸の側にはずっと菖一がついていて、それ以外には代わる代わる、恵次郎や愛子、それに夏彦と千佳と両親が世話をしに来てくれていた。
そしてまた往診に来た医者と、ようすを心配した家族と菖一に囲まれて診察を受ける。
医者の診断は思わしくない。それを聞いた緑丸は、菖一の方へ手を伸ばし、菖一の手を取った。
もう声を出すこともできない。ただ、弱々しく菖一の手を握ったり緩めたりするだけだ。
何度か菖一の手を握ると、菖一の声でこう聞こえてきた。
「……お伝えしておきます」
それを聞いた恵次郎が菖一に訊ねる。
「兄さんがなにか言ったのか?」
菖一は澄ました顔で返す。
「もしこの病が治ったら、ご自分で伝えるそうです」
それを聞いた恵次郎の表情が少しだけ緩んだ。緑丸は病を治す気があるのだと思ったのだ。
しかし、次の瞬間緑丸の手から力が抜け、胸の動きが止まった。
それを見た医者が、緑丸の目を覗き込む。それから、手首を握ってしばらく脈を診てこう言った。
「ご臨終です」
医者の言葉に、恵次郎はもちろん父も母も、愛子も、夏彦も千佳も、恵次郎の息子も呆然とした。ただひとり菖一だけが、全てを悟っていたかのような顔をしていた。
「……お通夜の準備だな……」
父がそう言ったその時、玄関の戸を叩く音が聞こえた。それと同時に、誰かの声も聞こえる。
「ミドリマル!」
その声を聞いて菖一が玄関の方を向く。
「バイオレットさんですね」
はっとした恵次郎が立ち上がり玄関に向かう。すると、菖一が言ったとおり、そこにはにこにこと笑ったバイオレットが立っていた。
恵次郎はバイオレットを家の中にあげ、緑丸に会ってくれと伝える。バイオレットはもちろんと答えた。
緑丸の部屋に通されたバイオレットは、家族に囲まれて横たわっている緑丸を見て、さすがに察したようで、なにも言わずに頽れた。
菖一が澄ました声でバイオレットに言う。
「ペストだそうです」
バイオレットはなにも言わない。ただじっと緑丸のことを見つめている。
「あと三分、いえ、一分早ければ間に合ったかもしれません」
この言葉がバイオレットに通じているかはわからない。けれども、バイオレットはまだかろうじて暖かい緑丸の手を握ってぼろぼろと泣きはじめた。
バイオレットの嗚咽を聞いて、菖一は立ち上がる。
「恵次郎さん、お通夜の準備をするのでいったんバイオレットさんにはお引き取り願いたいとお伝えしてもらっていいですか」
「え? ああ、そうだな」
恵次郎としてはもう少し別れを惜しませてやってもいいと思ったようだけれども、通夜の準備をしないといけないのも事実だ。菖一の言葉を、バイオレットにそのまま訳して伝えた。
バイオレットは涙を拭って立ち上がり、それでもまだ緑丸のことを見つめていた。
バイオレットが立ち上がったのを音で察したのか、菖一が恵次郎にさらに言う。
「では、私はバイオレットさんを送っていきます」
それに対し、恵次郎はこう返す。
「バイオレットを送っていくんだったら、僕の方がいいんじゃないのか?
僕なら英語がわかるし、それに、前と違う家に住んでるとなったら菖一だとついていくのが大変だろう」
恵次郎の言うことはもっともだ。けれども、菖一はあくまでもこう主張する。
「お通夜の準備はなるべく親族の方が行った方がいいでしょう。
それに、私がお通夜の準備を手伝うと言っても、少々不便なところもあると思いますし。
大丈夫です。以前と違うところに住んでいても、行きさえ肘に掴まらせていただければ行けますし帰ってこられます」
「う……ん、それなら……」
少々納得いかないようすだけれども、恵次郎はこれから菖一が家まで送っていくから、その道中肘を掴ませてやって欲しいとバイオレットに伝える。バイオレットは頷いて、菖一の左手を右肘に掴まらせた。
ゆっくりと歩いて玄関を出る。それから、バイオレットが歩くのについて菖一は歩いて行く。しばらく歩いて菖一はふと気づく。この道は、以前バイオレットが住んでいた家に続く道と同じようだった。
そして案の定、辿り着いたのは以前と同じ場所。恵次郎から、リンネがこの家を倉庫として使っているとは聞いていたので、またこの家に住むのだろうなと菖一は察する。
家の前に立ったまま、なかなか入ろうとしないバイオレットに菖一が話し掛ける。
「I'm keeping mes
それを聞いたバイオレットは、驚いた顔をして菖一を見る。
「Why c
菖一はしれっとした顔でバイオレットに訊ね返す。
「Why should you think,I can'
驚きで言葉が返せないようすのバイオレットに、菖一はさらに言葉を続ける。
「
緑丸からの伝言を聞いて、バイオレットはまたぼろぼろと泣きはじめる。それに気づいているのかいないのか、菖一はとどめを刺すようにこう言った。
「You be
バイオレットがその場に膝を着く。声を上げて泣いて、張り裂けそうな声でこう叫んだ。
「Not to be,but to be!」
その声を聞いて、菖一はぽつりと呟く。
「緑丸さん、あなたの死を持ってして、バイオレットさんはあなたに呪われました」
その後、緑丸の葬儀は盛大に行われた。参列者も多く、献花台が設けられたほどだ。当然、バイオレットとリンネも花を捧げに来た。
きっと、緑丸の人生ははたから見たら華やかなものだっただろう。けれどもその裏に隠されたことを記された日記は、どこにも公開されることなく、家族の手で大切に保管された。
しおりの代わりに、バイオレットの名が挟まれたまま。
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