第22話 再来の知らせ
東京の浪花節の組合に断りの手紙を出した後、それなら暇なときに遊びに来てくれという手紙が返ってきた。それには返事を書かず、ただ文箱の中にしまってある。
東京の組合からも、強引な誘いは来ないようだし、これで腰を据えてバイオレットのことを待つことができると、緑丸は安心した。
けれども、待てども待てどもバイオレットは日本に戻ってこない。時折送られてくる手紙で、英吉利でどうしているかという近況と、いつかまた日本に行くからということだけを伝えられているだけだ。
手紙が届く度に、緑丸はうれしいような悲しいような複雑な気持ちになる。今でもバイオレットが自分のことを覚えていてくれるのはうれしいけれども、それでも会えないというのがつらくて仕方がなかった。
そんな日々を過ごすうちに、緑丸はもっとバイオレットのことを知りたいと言う気持ちが強くなっていった。夏彦にキリスト教のことを教えて貰い、バイオレットへの手紙を送って貰っているリンネに頼んで、ハムレット以外のシェイクスピアの台本を手に入れたりもした。
恵次郎の手を借りながらシェイクスピアの台本を訳して、浪花節に使えるように作り替え、菖一の三味線に合わせて稽古をする。そうやって少しずつ持ち歌を増やしながら、何年もバイオレットのことを待ち続けた。
そうしていると、数年経った頃にはすっかりシェイクスピアは緑丸の定番となり、評判はますます上がった。しまいには緑丸の芸を盗み、シェイクスピアを見よう見まねで唸る浪花節語りが出たほどだ。
けれども、それは緑丸にとって些細な出来事だった。緑丸にとって大切なたったひとつのことは、浪花節のシェイクスピアをバイオレットに聴かせることだけなのだから。
そうして、バイオレットが日本を去って八年後、久しぶりに届いたバイオレットからの手紙を、緑丸は辞書を見ながら丁寧に読んでいた。いつも通りの英吉利での近況。子供がどれほど大きくなったかだとか、季節の花がどうだとか、商売が上手くいっているだとか、そんなことが書かれている。
バイオレットがあいかわらず平穏な日々を送れていることに安心しながら読んでいると、最後の方の文が緑丸の目を捕らえた。
「あ……嘘じゃないよな……?」
思わずそう口をついて出る。その文は、今度日本に行くという旨と、出航日が書かれていた。
思わず涙が滲む。ずっと待ち焦がれていた日がようやく訪れるのだ。これでやっと、バイオレットに浪花節を聴かせられるのだと緑丸はうれしくなった。
しばらく文机の前で泣いていると、足音が聞こえてきてふすまが開いた。
「兄さん、そろそろ夕飯だぞ。
……兄さん、どうした?」
泣き崩れている緑丸を見て驚いた恵次郎が話し掛けると、緑丸は涙を拭って、鼻を啜って顔を上げる。
「……バイオレットが日本に戻ってくるって」
「ほんとうか?」
緑丸は黙って頷く。そのようすに、恵次郎は戸惑ったように周りを見渡してから緑丸の肩に手を掛ける。
「とりあえず、夕飯を食べよう。
これでなにも食べずに体を壊したらバイオレットに心配されるぞ」
「うん」
背中を支えられながらなんとか立ち上がり、緑丸はまた目を擦る。それから、会えるのがうれしくてこんなに泣いていたのを知られたら、すこし恥ずかしいなと思った。
手紙に書かれていた出航の日を過ぎた辺りから、緑丸の浪花節にも張りが出てきた。今までも十分にすばらしい声だと言われていたけれども、このところの緑丸はまさに絶好調だと、寄席に押し寄せる人々が喝采した。
緑丸には、その喝采がバイオレットの来日を祝っているかのように聞こえていた。
早くバイオレットに会いたい、船が到着するのはいつだろうかと、しきりに菖一や家族に話して聞かせる緑丸に、ある日の寄席の帰りに菖一が言った。
「緑丸さんも、いよいよ年貢の納め時ですね」
「お、おう」
きっと、以前父と約束した、バイオレットともう一度会えたら結婚すると言ったあのことを指しているのだろう。
結婚というものに緑丸はいまだに実感が湧かないけれども、バイオレットにもう一度会えたら、今度こそ結婚してもいいかもしれないとなんとなく思った。
けれどもあえて、菖一にはこう言う。
「でも、お見合いはバイオレットに会ってからだからな。菖一からもそう言ってくれよ」
「……仕方ないですねぇ……」
菖一がやや呆れ気味だけれども、バイオレットに会うまではお見合いをする気はないのだ。
もう一度会うまでは諦められないから。
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