第21話 末摘花
緑丸が御用邸に呼ばれたという噂は、あっという間に横浜だけでなく東京にも広がり、東京の浪花節の組合から、東京に来てやっていかないかという声が掛かった。
東京に来て。と言うのは、特定の寄席の期間だけ東京にいるということではなく、東京に移住して、そこに活動拠点を移さないかということだ。
手紙を寄越してきたのは、いつだったか緑丸が東京の寄席に出たときに殴り合いのケンカをして、その後打ち解けた浪花節語りの取り纏め役だ。緑丸はどうするべきか悩み、菖一に相談する。
「なるほど。東京に出るか否かですか」
菖一は元々は東京の出だ。これを機に東京へ行きたいというかもしれない。もしそう言ったら、東京へ行くことを決断できるのか緑丸は悩んだ。
いつも通りの調子で、菖一が訊ねる。
「どうなさいます?」
それを聞いて、緑丸は菖一に訊ね返す。
「お前は、東京に帰りたいと思わないのか?」
緑丸の問いに、菖一は首を傾げて返す。
「まぁ、正直言えば思いますけれども、私は緑丸さんに解雇されるまで、緑丸さんについていくと決めたんです。
どうぞ私のことはお気になさらず判断なさってください」
緑丸は悩んだ。家族を置いて東京へ行くのか。東京へ行ったらどうなるのか。それを考えて思わず唸り声を上げると、菖一が澄ました声でこう言った。
「今、東京に行けば緑丸さんは大成なさるでしょうね」
その言葉に、緑丸はこう返す。
「大成するとどうなる?」
浪花節で大成したいという気持ちは緑丸にも多少はある。けれども、具体的にどうなるかの想像がつかない。かつて東京で売れ筋の浪花節語りについていたこともある菖一なら、どうなるか知っているかと思った。
菖一はこう答える。
「名声とお金が、今まで以上に多く手に入ります。その代わり」
「その代わり?」
「横浜には戻れないでしょうね」
それを聞いて緑丸は肩を落とし、頭を振った。
「横浜に戻れなくなるなら大成しなくていい。東京には行かない」
緑丸の言葉に、菖一は驚いた様子もなくひとこと呟く。
「さいですか」
ここで、東京に行くべきだと菖一が押してこないのは緑丸として救われた気持ちだった。なんせ、緑丸は横浜にいなくてはいけないのだ。横浜に戻ってこられなくなるなんてことがあってはならない。
そう、いつバイオレットが日本に戻ってきてもいいように、この地にいなくてはいけないのだ。
菖一は、緑丸のその気持ちを見通しているのかもしれない。黙り込んでしまった緑丸に済ました口調でこう言った。
「でしたら、お断りの手紙を書いて下さい。
手紙でお誘いが来たんでしょう?」
「え? あ、ああ。そうだな。返事は返さないと」
いそいそと文机に向かう緑丸に、菖一がさらに言葉を続ける。
「緑丸さんは横浜でやっていくだけでも十分稼げるでしょう。
なんせここは、江ノ島参りに来た人もついでに寄っていきますからね。下手をしたら東京より人がくるかもしれません」
「ああ、そうだな」
これは、断るためのもっともらしい口実を作ってくれているのだろう。ほんとうの心の内は手紙には書かず、代わりに、菖一が言ったとおりのことを手紙にしたためた。
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