第20話 栄光の日々
緑丸が時折バイオレットに手紙を送るようになり、時間をかけながらもやりとりをするようになって一年。冬もそろそろ終わる頃に久しぶりに届いたバイオレットからの手紙を、緑丸は恵次郎から借りた辞書を引きながら読んでいた。
どうやらバイオレットは緑丸に配慮して、なるべく平易な文で手紙を書いてくれているようで、緑丸でも自力でなんとか読むことができている。
今回届いた手紙を読んで、緑丸は呆然と呟く。
「あいつ、子供できたんだ……」
それを見て、やはり英吉利にはついて行かなくてよかったと緑丸は思う。ついて行って、バイオレットの家庭の幸せに横やりを入れるようなことがなくてよかったと思ってしまったのだ。
手紙を文机の上に置いて、緑丸は左手に填めた匙の指輪を撫でた。
それから間もない頃、浪花節のハムレットが仕上がり、寄席で披露することになった。寄席の看板には見たこともない題名が掲げられていると噂になり、浪花節語りの名が緑丸だったということもあり、かつてないほどの盛況になった。
はじめは、西洋の話ということと緑丸が洋服を着て登場するという物珍しさで人が押し寄せていたのだろう。けれども、緑丸が得意とする調子の唸りと、どことなく西洋風の菖一の三味線は、たしかに聴衆の心を掴んだ。
この浪花節は難しい。緑丸はいまだにそう思っているけれども、今ではしっかりと菖一の三味線が引っ張ってくれる。そのことは緑丸を安心させた。
その安心が安定感を出し、声の伸びもよくなる。緑丸の声と、その声で唸られる珍しい物語に、人々は熱狂した。緑丸の噂を聞きつけて、東京から客が来るほどにもなったのだ。
そんなある日のこと、緑丸の元に随分ときっちりとした洋服を着た男がやって来た。
「
「そうだけど、なにか用ですか?」
緑丸が訝しがりつつ緊張していると、その男はこう言った。
「緑丸さんの評判は、東京にまで響いております。
その噂を聞いて、軍の者が緑丸さんの浪花節を聴き、そこから内親王様のお耳に入りました。
内親王様が、是非とも葉山御用邸に緑丸さんを招いて、浪花節を披露して欲しいとのことです」
それを聞いた緑丸は顔を真っ青にして菖一の袖を引っ張る。すると菖一は、澄ました顔で緑丸にこう言った。
「どうなさいます?」
とんでもない大事になっているのに、菖一はいつもの調子だ。それで少しだけ落ち着いた緑丸は、使いの男に頭を下げてこう返した。
「申し訳ありません。浪花節語りという身分の者が内親王様にお目通りするなど、畏れ多いです。
ですので、辞退させていただきます」
それを聞いた男は、頭を下げて緑丸の前から去って行く。
あまりの出来事に、緑丸はふらふらしながら居間に向かう。
「緑丸さん、いったん落ち着きましょう」
「お、おう」
居間に行くとちょうどおやつ時で、家族全員が揃っていた。
愛子が焼いたクッキーを食べながら、父が緑丸に訊ねる。
「どうした、随分と顔色が悪いぞ」
その問いに、緑丸は先程の経緯を説明する。すると、その場にいた、恵次郎の息子以外の全員が沈鬱な表情になった。
「まぁ、たしかに、身に余る光栄すぎて胃が痛い……」
父がそう呟くと、母もぽつりと言う。
「身を弁えるのは大事ですものね……」
それから、恵次郎がクッキーを囓ってこう言った。
「味がしない……」
「わかります……」
同じようにクッキーを囓った夏彦も、神妙な顔をしている。
今日のおやつは、少し楽しむのが難しそうだった。
それからまた翌日、あの男が再び緑丸の前に現れた。なんでも、内親王がどうしても緑丸の浪花節を聴きたいとのことで、どうかお願いできないかと言うことだった。
そんな尊い方に二度も頼まれては、緑丸もさすがに断り切れない。葉山御用邸にお邪魔して、浪花節を披露する旨を了承した。
そしてその日のうちに馬車に乗り、菖一と共に御用邸を訪れた緑丸は、内親王の前で要望であったハムレットを披露した。
結果として、身に余る光栄とも言えるほどの喝采をいただいた。しかも、緑丸のことを歌った詩歌まで詠まれたのだ。
あまりにも身分不相応なのではないかと緑丸は胃が痛くなったけれども、帰りの馬車の中で菖一が緑丸にこう言った。
「まぁ、悪くはなかったんじゃあないですか」
それは緑丸の浪花節について言っているのか、それとも内親王の反応について言っているのか、いまいちわからなかったけれども、深く考えるとますます胃が痛くなりそうなので緑丸は深く考えるのをやめた。
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