第19話 言葉は海を越える

 バイオレットが日本を去って一年ほど経った頃、以前より試行錯誤を重ねていた、シェイクスピアのハムレットを浪花節用にした台本が出来上がった。

 その台本を緑丸が素のままに読み上げ、菖一に聞かせる。ひとしきり聞き終わってから、菖一が呟いた。

「だいぶかかりはしましたが、ようやくこれではじめられますね」

 その言葉に、緑丸はにっこりと笑う。

「それじゃあ、早速稽古しようか」

 気が急いているようすの緑丸に、菖一が訊ねる。

「稽古はいいですが、緑丸さんは内容を覚えているのですか?」

 その問いに、緑丸は当然といった様子で返す。

「もちろん。菖一だって一緒にやってたんだから、覚えてるだろ?」

「まぁ、おおむねは覚えていますが、訂正個所が多いので少し記憶がごっちゃになってますね」

「そっか。じゃあまずは覚えるところからはじめよう」

 そう言って緑丸はハムレットの台本を読み上げる。そうしていると、菖一がなにやら手を動かしている。おそらく、どのように三味線を入れるかを考えているのだろう。

 これからハムレットの稽古をして、バイオレットに少し近づけるのだと思うと、緑丸はうれしくなった。


 台本ができたあの日から、毎日のように緑丸と菖一はハムレットの稽古をした。しかし、なんせはじめて西洋の物語を浪花節にするのだ。どのように唸ればいいのか、どのように三味線を弾けばいいのか、全てが手探りで、あまりにも難しかった。

「緑丸さん」

 三味線を弾いていた菖一が手を止めて緑丸に声を掛ける。

「ん? どうした」

「これは私の三味線から作って引っ張っていくのはあまりにも難しすぎます。

まずは緑丸さんが唸りたいように唸ってください。

それを参考に、こちらも三味線を考えます」

 これは、ハムレットの内容は菖一よりも緑丸の方がよく理解していると判断しての言葉だろう。実際に、ハムレットの芝居を観たことがあるのは菖一ではなく緑丸なのだ。

「わかった」

 緑丸は頷いて、添える程度の菖一の三味線を聞きながら思うままに唸る。それを伺いながら、菖一は三味線の調子を調節しているようだった。

 そんな稽古を何日も、何週間も続けて、少しずつ形になってきた。緑丸の唸りはたしかに浪花節であるのに、菖一の三味線は少し西洋風という、一風変わった方向にまとまってきた。

「いい感じだ。俺が観た舞台の雰囲気に近づいている」

「なるほど。でしたらこの方向性で詰めていきましょう」

 その日もひとしきり稽古をして、稽古の終わりを告げるように菖一が三味線を畳の上に置くと、緑丸の目から涙が零れて、ぽとりと落ちた。

 その微かな音を聞いた菖一が緑丸に訊ねる。

「どうなさいました?」

 緑丸は鼻を啜って答える。

「バイオレットに聴かせたい」

 そのようすを聞いた菖一は、息をついて緑丸に言う。

「まだ、寂しいんですね」

「うん」

「でしたら、お手紙でも書いたらどうです?

送り先はリンネさんが知っているでしょう」

「うん、そうする」

 涙を拭って、緑丸が立ち上がる。そのまま部屋を出て、恵次郎の元へと向かった。

 そのようすを聞いていた菖一は、いまだに緑丸の心の中からバイオレットのことが消えないのだなと思った。


 恵次郎の部屋に行った緑丸は、部屋で書き物をしている恵次郎に伺うように声を掛ける。

「恵次郎、ちょっといいか?」

 恵次郎は文机から顔を上げて緑丸の方を見る。

「どうしたんだ兄さん」

 目を腫らしている緑丸を見て心配になったのだろう、恵次郎が緑丸の方に向き直って、緑丸に座るように言う。

 中に入って座った緑丸は、恵次郎にこう頼み込んだ。

「俺、バイオレットに手紙を書きたいんだ。

だから、英語を教えてくれ」

 それを聞いて、恵次郎は驚いたような顔をする。

「そんな、日本語で書いてくれれば僕が訳すぞ」

 恵次郎のその言葉に、緑丸は頭を振って返す。

「俺が自分で書きたいんだ。

だから頼む。教えてくれ」

 それを聞いた恵次郎は、一瞬呆気にとられた顔をしてから頷く。

「わかった。それならまずはアルファベットの練習からだ。

書けるようになるまでかなりかかると思うが、それでも自分で書くんだな?」

「うん、自分で書く」

 緑丸は力強く返事を返す。その日から、何週間もかけて、恵次郎に教わりながら緑丸はバイオレットに送る手紙を書いた。

 初めて書いた手紙は、短文をふたつみっつ並べた程度のものだった。これで今の自分の気持ちを全て伝えられるとは思えない。けれども、自分で書いた手紙をリンネに託したときは、少しだけバイオレットに近づけた気がした。


 そうやって、いつまでもバイオレットのことを忘れられずに過ごしていたある日のこと、緑丸は両親からお見合いを勧められた。

「お前も、友達が国に帰っていつまでも寂しがってばかりでつらいだろう。

嫁をもらえば、少しは寂しさもまぎれるぞ」

 そう言ってお見合い写真を出してきた父に、緑丸は口を尖らせる。

「……寂しいのを紛らわせるのに結婚するのはやだ」

 すると、父は眉尻をつり上げて、いささか荒い口調で緑丸に言う。

「お前はいつまで経ってもそうやって言い訳をして結婚したがらない。

お前は長男なんだからいい加減嫁をもらえ!」

「でも」

「でもじゃない!」

 父の剣幕に緑丸が萎縮していると、外で話を聞いていたらしい菖一が居間に入ってきて父を窘める。

「失礼します。

お言葉ですがお父様、緑丸さんは今本当に、嫁をもらえる気持ちではないんでしょう」

 その言葉に、父は息を落ち着かせて菖一を見る。

「そうは言っても、こいつの友達が日本からいなくなってもう一年だぞ?

いつまでもくよくよされていたら心配だ」

「そうですね。それは心配です。

それに、長男なのに結婚していないのが問題なのもわかります」

 菖一が緑丸の隣に座り、左手を握って言う。

「ですから緑丸さん。もう一度バイオレットさんと会えたら、その時はお見合いをして結婚なさってください」

 左手を握られながら、緑丸が頷く。

「わかった。もう一度バイオレットに会えたら、その時はちゃんとお見合いして嫁さんもらう」

 渋々といったようすだったけれども、緑丸から嫁をもらうという言葉を聞けた父は満足そうだった。

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