第17話 出港
バイオレットが帰国する二日ほど前、バイオレットに浪花節を聴かせる最後の機会だと、緑丸達はバイオレットの家に行って浪花節を披露した。
帰国前、最後に聴く浪花節をバイオレットはいつになく真剣に聴いているように見えた。
今日は最後と言うことで三節ほど唸り、緑丸と菖一が立ち上がって一礼をすると、バイオレットは大きな拍手と歓声を浴びせる。
「カッコイイ!」
これももういつものことだけれども、もう最後なのかと思うと、緑丸は寂しくて仕方なかった。
その後、最後の歌の練習もしておやつ時。この日出てきたおやつは、はじめてこの家に来たときと同じように赤いお茶とプリンだった。
ふと、緑丸が空席がひとつ多いことに気がついてバイオレットに訊ねる。
「あれ? そういえばリンネはどうしたんだ」
それを恵次郎がバイオレットに訳すと、バイオレットが言葉を返す。それを聞いた恵次郎は納得したように頷いてこう説明した。
「リンネは、横浜の植木屋に紹介してそっちに移ってもらったそうだ。
なんでも、帰国した後はその植木屋から植物を輸入する契約をしたそうで、リンネはそのやりとりのために植木屋に任せたと言っている」
「なるほど、リンネは日本に残るのか」
少しでもバイオレットが日本にいた名残が残ると聞いて、緑丸は少しだけほっとする。
ふと、菖一がプリンを食べてこう呟いた。
「それにしても、寂しくなりますね」
それを聞いて、恵次郎が意外そうな顔をする。
「なんだ、まさか菖一がそんなことを言うとは思わなかったぞ」
菖一は椅子の側に置いた三味線に手を置いて返す。
「なんせ、緑丸さんの浪花節を一番求めていたのは、寄席に来る日本人じゃあなくてバイオレットさんでしたからね」
菖一の言っていることがわかっているのだろうか、バイオレットが身を乗り出して緑丸の手を取り、なにかを話し掛けた。それを聞いた恵次郎が、緑丸に言う。
「今夜、ふたりだけで別れを惜しみたいから泊まっていって欲しいと言っている」
その言葉に、緑丸はバイオレットの手をぎゅうと握り返す。
「うん。泊まっていく」
笑っているけれども泣きそうな声をする緑丸のようすに、菖一が恵次郎に小声で言う。
「私達は邪魔しちゃいけないみたいですね。
おやつをいただいたら帰りましょう」
「そうだな」
四人でゆっくりとおやつを食べて、それから、恵次郎と菖一が帰るために玄関に向かう。緑丸とバイオレットはふたりを見送るために着いていった。
帰り際、恵次郎が緑丸に言う。
「別れを惜しむのはいいけど、あまり夜更かしをするんじゃないぞ」
続けて菖一が口を開く。
「それと、鉛メンコをするのでしたら、庭でなさってください」
ふたりの言葉を聞いて、緑丸はにっと笑う。
「大丈夫だって。そんな心配するなよ」
それから、恵次郎と菖一がバイオレットに少し声を掛けてから帰っていく。ふたりが去った後玄関の扉を閉めて、バイオレットが緑丸に向き直った。
「ミドリマル」
泣きそうな顔でそう言って緑丸の頬に手を掛けるバイオレットを、緑丸は見上げて見つめる。しばらくふたりで見つめ合って、お互いこれが最後なのだと、抱きしめ合った。
緑丸がバイオレットとの別れを惜しんで泊まった翌日、緑丸が家に帰ると、早速恵次郎と菖一に出迎えられた。
「兄さん、大丈夫だったか?」
恵次郎がそう問いかけてくるので、緑丸はきょとんとした顔で訊ね返す。
「大丈夫だったってのは?」
「その、もう、大丈夫なのかとか」
なんとなく歯切れの悪い恵次郎に、緑丸は、寂しそうな顔をして返す。
「正直言えば、大丈夫じゃあないんだけど、あいつにも帰る理由があるんだから、仕方ないさ」
そう話しているところに、菖一が口を開く。
「緑丸さん、昨夜は夜更かしなさいましたね」
菖一の言葉に、緑丸はぎくりとしてから苦笑いをする。
「なんでわかった?」
「……夜更かしをしたときの声をしておいでです」
「うん、そっか」
家の中に上がり、緑丸は自室へと向かう。なぜか頼りないその足取りを見て、恵次郎が緑丸に訊ねる。
「兄さん、少しふらふらしてるぞ。もしかして昨夜そんなに泣いたのか?」
緑丸は困ったように笑って返す。
「まぁ、泣きはしたけど、それより腰をやっちまって」
「それは大変。重い物でも持ち上げたのか?」
「ちょっとバイオレットの荷造りの手伝いもしてて」
「なるほど」
頼りない足取りの緑丸を恵次郎が支えて部屋まで行く、そして部屋に入る前に恵次郎が言った。
「明日、出航の時にみんなで見送りに行こう」
その言葉に、緑丸はぽろりと涙を零した。
そして翌日。蒸気船が停まっている港で、バイオレットと最後の別れの挨拶をした。緑丸はバイオレットと最後の握手をして、こう言った。
「また来てくれ」
バイオレットは緑丸に言葉を返して頷く。もちろん。と言っているように思えた。
バイオレットが手を振ってから船に乗り込んで行く。それを、緑丸達はじっと見つめる。
船はまだ出ない。船の甲板に人が沢山出ているので、もしかしたらあそこにバイオレットが顔を出すかもしれない。そう思った緑丸は甲板に目をやるけれども、バイオレットの姿を見つけられない。
「バイオレット、どこにいるんだろう」
緑丸がそう呟くと、隣にいた菖一がすっと甲板の一ヶ所を指さした。
「あそこです」
指さす先を見ると、たしかに小さくバイオレットが見えた。緑丸に向かって、大きく両手を振っている。緑丸もそれに応えるように大きく手を振った。
そうしているうちに汽笛が鳴り、船が出航する。バイオレットの姿が見えなくなっていく。そして完全に見えなくなって、遠くなっていく船を見ながら緑丸は菖一に訊ねる。
「どうして、バイオレットがいる場所がわかったんだ?」
その問いに、菖一は口元に手を当てて返す。
「バイオレットさんが緑丸さんの名前を呼んでいるのが聞こえたので」
「……そっか」
菖一のおかげで、最後までバイオレットのことを見送れてよかった。けれども、最後の言葉が自分に届かなかったのは悔しかった。
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