第16話 はなむけ

 寒くなりはじめたある日のこと、この日も緑丸はバイオレットの家に浪花節の披露と、歌の練習で訪れていた。

 いつも通りのおやつ時、お茶を飲みながら談笑していたのだけれども、突然バイオレットが真面目な顔をして緑丸に話し掛けた。それを聞いた恵次郎が困惑した表情になる。

 バイオレットの言葉の中に、英吉利という言葉が入っていたのはわかった。けれども英吉利がどうしたのかまでは緑丸にはわからない。

「恵次郎、なんて言ってるんだ?」

 そう訊ねると、恵次郎はいったん口を噤んでから、重々しい声でこう言った。

「兄さんも、一緒に英吉利に行かないかと言っている」

 それを聞いて緑丸は驚く。どうしていきなりそんな話になるのかわからなかったのだ。そう、気がつけば緑丸は、バイオレットがずっと日本にいるものだと思い込んでいたのだ。

 恵次郎が言葉を続ける。

「リンネが見つけた朝顔をきっかけに商売がうまく行くようになったから、その管理の関係でいったん国に帰らないといけないそうだ」

 バイオレットが、真剣な目で緑丸を見つめる。緑丸は悩んだ。バイオレットが英吉利に帰るというのであれば、ついていきたい気持ちはある。けれども、言葉が通じない国に行くのはこわかった。それに、故郷で婚約者が待っているというバイオレットについて行って、邪魔をしてはいけないとも思った。

 色々なことが頭の中を巡って、緑丸の口から出て来た言葉はこういうものだった。

「……ごめんな。家族を置いて行くわけにはいかないんだ」

 それを恵次郎がバイオレットに訳して聞かせると、バイオレットは明らかに、落胆した顔になった。バイオレットが絞り出すような声で緑丸になにかを言う。歌についてなにかを言っているようだ。

 恵次郎の方をちらりと見ると、恵次郎が訳す。

「それなら、国に帰る前に兄さんに西洋の歌で舞台に立って欲しいそうだ」

 それを聞いて、緑丸は頷く。

「わかった。今のとこあてはないけど、それで舞台に立つよ」

 緑丸の言葉を、恵次郎が訳す。すると、リンネが心配そうな目で菖一の方を見た。

 緑丸の言葉を聞いて、少し考える素振りを見せてから菖一が口を開く。

「まぁ、バイオレットさんへのはなむけとしてはいいんじゃあないでしょうか」

 澄ました顔はしているけれども、心なしか声が震えていた。


 数日後、舞台に立つあてはないけれども、その時のためにと緑丸は夏彦に洋服を仕立てるためのテーラーを案内してもらっていた。

 テーラーで採寸をして服の注文をし、その帰り道に、緑丸は同行している夏彦に何気なくこう言った。

「夏彦、今度キリスト教のこと、教えてくれよ」

 夏彦は驚いたような顔をして訊ね返す。

「今まで興味がなさそうでしたのに、なぜ急に?」

 その問いに、緑丸は少し俯いて言う。

「バイオレットのこと、もっと知りたいって思ってさ」

 バイオレットが国に帰るという話は、夏彦も知っている。あれだけ親しくしていた友人のことを、これからも覚えているためにもっと知りたいと思うのは当然のことと判断したのだろう。夏彦はにこりと笑って緑丸にこう言った。

「でしたら、愛子さんと一緒に勉強しましょう。その方が張り合いもあるでしょう」

「うん。そうする」

 それから、緑丸は夏彦に訊ねる。

「そういえば、夏彦は歌で舞台に立てるあてとか心当たりない?」

「え? なくはないですが、なんでまた?」

 突然の質問に驚く夏彦に、緑丸はバイオレットが国に帰る前に西洋の歌で舞台に立って欲しいと言われた旨を説明する。すると、夏彦は頷いてこう言った。

「それは丁度よかったです。

私の知り合いの合唱団が、目玉になるような歌手を探していたんです。そちらをあたってみましょう」

 それを聞いて、緑丸は思わず涙ぐむ。

「ありがと。恩に着るよ」


 それからしばらくして、緑丸は新山手劇場の舞台に立つことになった。

 合唱団の一員としてではなく、独唱の歌手としてだ。合唱団の方でも緑丸の噂を聞いていた者が何人もいたようで、是非とも出演して欲しいと逆に頼み込まれた。

 報酬も出すとまで言われたけれども、今回は緑丸個人の事情もあるからと報酬無しでということで話をつけた。

 公演の日が来て、幕が上がる。緑丸の出番は、公演の中頃だ。しばらくの間、緑丸は舞台袖で合唱を聴いていた。

 合唱を聴いていると、バイオレットに歌を教えて貰っていた日々のこと思い出し涙が浮かんでくる。

 そうしているうちに緑丸の出番が来た。緑丸は涙を拭って舞台に出た。

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