第15話 指輪の意味
緑丸と菖一が寄席で忙しくしているある日のこと、恵次郎が陰鬱な顔をして、家に帰って来た緑丸と菖一にこんなことを言った。
「兄さん、菖一、最近千佳の体調が良くないんだ。
医者に診せた方がいいだろうか」
それを聞いた緑丸と菖一は、間を置かずに返す。
「そりゃ診せた方がいいに決まってるだろ」
「相談するならご両親にとは思いますが、お医者様に診せた方がいいでしょうねぇ」
それを聞いた恵次郎は、すぐさまにこう言う。
「わかった。これから医者を呼ぶと父さんに言ってくる」
いつになく慌ただしいようすで家の奥に行く恵次郎を見送って、緑丸と菖一も中に上がる。
「千佳の調子が悪いってなると、俺らも様子見たほうがいいかな?」
緑丸のその言葉に、菖一は首を振る。
「やめておいた方がいいでしょう。下手に騒がしくして千佳さんの負担を増やすのはよくありません」
「そっか、それもそうだな」
千佳のことが心配ではあるけれども、体調が悪いときに騒がしいとしんどいのは緑丸にもわかる。なので、素直に菖一と一緒に自室へと向かった。その途中、廊下を走る恵次郎とすれ違ったけれども、きっと医者を呼びに行くのだろう。
緑丸が自室に戻り、菖一と一緒に浪花節の稽古をしていると、知らぬ間にだいぶ時間が経っていた。
「少し休憩しましょう」
菖一がそういうので緑丸が姿勢を崩したその時、部屋のふすまが勢いよく開いた。
「なんだ、どうした!」
思わず驚いてそちらの方を見ると、真っ赤な顔をした恵次郎が立っていた。
「兄さん、菖一、大変だ!」
そのようすを見て、恵次郎が先程千佳の体調が悪いと言っていたのを思い出す。菖一が緊張した声で恵次郎に訊ねる。
「なにがあったんです? 千佳さんの容態が悪いとか」
すると恵次郎は頭を振ってこう言った。
「千佳が……おめでただ……」
それを聞いて、緑丸も菖一も立ち上がる。
「そいつは大変だ。お祝いに行かないと」
「おめでたとなるとこれからが大変ですからね」
いつもより幾分早足で歩く恵次郎について、緑丸と菖一は千佳が使っている寝室へと向かう。寝室に入ると、そこには布団の上で起き上がっている千佳と、それを取り囲むように両親と愛子、夏彦、それに医者が座っていた。
医者が緑丸と菖一に頭を下げてから、にっこりと笑って言う。
「おめでとうございます」
千佳もうれしそうにはにかんで恵次郎を見ている。緑丸と菖一も千佳の側に座って声を掛ける。
「ついにおめでたか。よかったな」
「これからも、体を大事にしてくださいまし」
ふたりの言葉に、千佳はうれしそうに返す。
「ありがとうございます。
これからはひとりの体じゃないから、気をつけて生活します」
こんなめでたいことがあったのだから、当然恵次郎はうれしいだろう。そう思った緑丸が恵次郎の方を見ると、恵次郎は泣きそうな顔をしていた。
「おい、どうした」
思わず心配になってそう訊ねると、恵次郎はか細い声でこう言った。
「千佳がおめでたになって、僕はどうしたらいいのかわからないんだ。
お腹に子供がいる女は、その間ひどく大変だって言うのは聞いてるから、どうしたら千佳の負担を減らせるのか……」
縋るように恵次郎が、医者と母を見る。それに応えるように、母がにっこりと笑って口を開く。
「おめでたの時になにをして欲しいかは人それぞれだから、その都度千佳さんと相談して決めなさいな」
恵次郎は頷いて千佳の手を取る。
「千佳、なにか困ることややって欲しいことがあったら、遠慮無く僕に言うんだぞ。
できる限りのことはする」
「はい。その時になったら、恵次郎さんに相談します」
それでようやく恵次郎が笑顔になって、母と愛子が言葉を交わす。
「おめでたとなったら、まずは体力をつけなきゃいけないから、今日はご馳走にしましょう」
「そうね。しばらくは私とお母さんで食事を作ったり色々するから、千佳さんはゆっくりしてくださいね」
母と愛子の言葉に、千佳が涙ぐむ。
「私、こんなにいい家族に恵まれてうれしいです。お言葉に甘えさせていただきます」
すっかりなごやかな雰囲気になったところで、医者がたまに診察に来るようにと言って立ち上がった。
千佳のおめでたが判明してから数日後、バイオレットとリンネが緑丸の家を訪れた。
「ん? どうしたふたりとも」
出迎えた緑丸がそう訊ねると、バイオレットがにっこりと笑って紙袋を手渡してきて、それと同時になにかを言っている。一緒に出迎えに来た恵次郎が、ぱっと笑顔になって緑丸にこう訳した。
「千佳のおめでたのお祝いに、シュークリームというお菓子をリンネが作ってくれたらしい」
「そうなのか? サンキュー」
緑丸と恵次郎が軽く頭を下げると、バイオレットとリンネはにっこりと笑って手を振って、そのまま帰ってしまった。
「なんだ、ゆっくりしていけばいいのに」
「あのふたりも仕事があるんだろう」
少し残念に思いながら、シュークリームの入った紙袋を抱えて千佳の元へ向かう。紙袋の中からは、甘くて良い匂いがした。
千佳のいる部屋へと行き、シュークリームを千佳に手渡すと、千佳は不思議そうな顔で紙袋を覗き込んでいる。
「あら……私、クッキー以外の西洋のお菓子ははじめてです」
少し戸惑ったようすの千佳に、恵次郎が笑いかける。
「それを作ったやつは料理上手なんだ。だからきっと、そのお菓子もおいしいぞ」
「うふふ、それなら、少し食べてみます」
そう笑う千佳を見て、恵次郎が少し固い声で更に話しかける。
「そういえば千佳、他にも渡したいものがあって」
「なんですか?」
きょとんとしてしまった千佳の手を取って、恵次郎は空いている方の手でポケットをまさぐる。そして出したのは、緑色の石が填まった指輪だった。
「あの、これを渡したくて」
そう言って恵次郎は、千佳の左手の薬指に指輪を填める。それを見ていた緑丸は、あの指輪には何か意味があるのだろうなとなんとなく察する。
それと同時に、バイオレットから渡された匙の柄の指輪も、何か意味があったのではないかと思った。
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