第9話 親友との日々

 初夏のある日のこと、緑丸はバイオレットとふたりだけで港を散歩をしていた。こうやってふたりだけで出歩くこともこのところは増えてきた。

 緑丸が英語をわかるようになったわけでもない。バイオレットが日本語をわかるようになったわけでもない。けれども、恵次郎がいなくてもなんとなく、簡単なことであればお互いの言いたいことがわかるような気がしているのだ。

 バイオレットが海の向こうを指さす。そちらの方を見ると蒸気船が小さく見えた。もしかしたら、これから入港するのかもしれない。

 少しの間ふたりで蒸気船を見てから、顔を見合わせて笑い合う。それからまた、ゆっくりと歩きはじめた。

 ふたりの散歩は続く。港を離れて日本人町に入り、バイオレットが赤い傘を店頭に差している店を指さして声を出す。

「ホワット?」

 それを聞いた緑丸はにっと笑って返す。

「茶屋だよ。ちょっとお茶飲んでくか」

 バイオレットはうれしそうに頷いて、茶屋に向かって歩いて行く緑丸に着いていく。店頭の腰掛けに座り、注文を取りに来た看板娘に緑丸が言う。

「ほうじ茶と大福ふたつずつ」

「はい、かしこまりました。

ところで、そちらの異人さんも召し上がるんですか?」

「ん? そうだけど?」

 きょとんとしている看板娘に、バイオレットがにっこりと笑いかける。看板娘も笑い返してこう続けた。

「お口に合うといいんですけどね。すぐご用意しますね」

 店の中に看板娘が戻るのを見送ってから、バイオレットが緑丸に話し掛けてくる。大福がどんなものか気になっているようだった。

「あんこを餅でくるんだやつだよ」

 すると、バイオレットは不思議そうな顔をする。そういえば、バイオレットには餅を食べさせたことがないので餅がなんなのかわからないのだろう。

「食えばわかるって。うまいぞ」

 緑丸がそう言って笑うと、バイオレットは期待に満ちた目で見返してきて頷く。

 そうしている間に、看板娘がほうじ茶の入った湯飲みと大福を乗せたお盆を持って戻ってきた。

「お待たせしました。どうぞ召し上がってくださいまし」

「お、ありがとさん」

 お盆を受け取った緑丸は、それをバイオレットとの間に置いて大福を手に取る。バイオレットも同じようにして、難しそうな顔で大福を見ている。

「そんなこわがるなって。俺も食うから」

 そう言って緑丸が大福を囓ると、バイオレットも大福を囓る。それから、もぐもぐと口を動かしてから驚いたような顔をして真顔になってこう呟いた。

「アメージング……」

「そうか、うまいか」

 バイオレットの言っている言葉の意味はよくわからなかったけれども、おいしいというのだけはなんとなくわかった。

 その後バイオレットはあっという間に大福を食べきって、満足そうにほうじ茶を飲んだ。


 少しの間茶屋で休憩して日本人町を散歩した後、ふたりはまた港を散歩する。このまま、居留地まで歩いて行くのだ。

 港に大きな船が入ってくる。先程見た蒸気船だろうか。それを見て緑丸は思う。バイオレットも、あんな船に乗って日本にやって来たのだろうか。

 ふと、バイオレットが緑丸の手を取って、真剣な顔で見つめてきてこう言った。

「マイディア」

 その言葉の意味は緑丸にはわからない。けれどもなぜか、ずっとそう呼んで欲しいと思った。

 緑丸も、バイオレットの手を握り返して言う。

「お前は俺の親友だ」

 しばらくふたりで見つめ合って、急に気恥ずかしくなって笑い合う。それからまた歩き出した。

 居留地に向かう途中、バイオレットが緑丸に話し掛けてくる。詳しくはわからないけれども、どうやらお互いの名前を書いて交換しようと言っているようだった。

「いいよ。今度交換しよう」

 その言葉に、バイオレットはうれしそうに笑った。


 後日、バイオレットの家に行った際、いつもの食堂でお互いの目の前で名前を書いて、その紙を交換した。そのようすを恵次郎は不思議そうな顔で見ていた。

「兄さん、なんで名前を書いた紙を交換してるんだ?」

 恵次郎のその問いに、緑丸は返す。

「バイオレットが交換したいって言ったからさ」

 恵次郎は怪訝そうな顔をしてバイオレットに話し掛ける。バイオレットは、うれしそうな顔をして言葉を返している。それを聞いた恵次郎は、驚いたような顔をして緑丸に言った。

「兄さん、いつの間に英語がわかるようになったんだ?」

「ん? わかんねぇよ?」

「なら、なんでバイオレットの言ったことがわかったんだ。バイオレットはほんとうに、兄さんと名前の交換をする約束をしたと言ってるぞ」

「んー、よくわかんないけど、なんとなく?」

 緑丸の返事を聞いて、恵次郎は額を押さえて溜息をつく。

「なんとなくでわかるんだったら、誰も言葉で苦労しないんだ……」

 その呟きを聞いた菖一が、澄ました顔で恵次郎に言う。

「緑丸さんは結構なんとなくでなんでもやりますからね。そういうことでしょう」

 うなだれる恵次郎をよそに、バイオレットからもらった名前の書かれた紙を御守り袋に入れた緑丸は、意気揚々とバイオレットに話し掛ける。

「そうだ、この前買った鉛メンコで勝負しようぜ」

 その言葉に、バイオレットはぱっと顔を明るくしてポケットの中から鉛メンコを取り出す。そのまま倚子から立ち上がり、食堂の中の空いているところに移動して手を振る。緑丸もその近くに行って袂から鉛メンコを取り出した。

 そのさまをリンネは不思議そうに見ていたけれども、恵次郎が慌てたようすで緑丸に声をかける。

「兄さん、まさか!」

 その声も聞かずに、バイオレットが鉛メンコを床に叩き付ける。それを見たリンネも声を上げた。緑丸も鉛メンコを床に叩き付けるとさすがに異変に気がついた菖一がやれやれといったようすで緑丸に言う。

「緑丸さん。鉛メンコをやるのは良いですが外でおやりなさい。この家の床は木で出来てるんでしょう? 痛んでしまいますよ」

 それを聞いた緑丸は悪びれる様子もなく鉛メンコを拾ってバイオレットに言う。

「バイオレット、庭でやれだって。庭行こうぜ」

 バイオレットも鉛メンコを拾って緑丸に返事を返す。ふたりは早速庭に移動して、鉛メンコの勝負をはじめた。

 何度も鉛メンコで勝負をして、ふたりは笑い合う。ずっとこんな日が続けばいいのにと。

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