第8話 ゲーテ座のハムレット

 春になって、いつものようにバイオレットの家で浪花節を披露し、歌の練習をした後のおやつ時。リンネが焼いたというクッキーを食べながら話していると、バイオレットが手を叩いて、興奮したようすで緑丸に話し掛けてきた。

「ん? なんだ?」

 なにかに緑丸を誘っているようなのだけれども、詳しいことがわからない。緑丸がじっとバイオレットの言葉を聞いていると、恵次郎がこう訳して聞かせた。

「今度ゲーテ座でバイオレットが役者として舞台に上がるらしい」

 それを聞いて、菖一がすこし驚いたような顔をする。

「バイオレットさんは役者だったんですか?

それにしては、商売をなさっていますけれど」

 その問いに、恵次郎はこう返す。

「素人劇団の役者なんだそうだ。その劇団が、今度ゲーテ座で芝居をやるから僕達にも観に来て欲しいらしい」

 それを聞いた緑丸はうれしそうな顔をして身を乗り出す。

「なんだそれ、めちゃくちゃ観たい!

絶対行くからな!」

 それを聞いたバイオレットは、うれしそうににっこりと笑った。


 それから数日後、緑丸は恵次郎を連れ、リンネに案内されてゲーテ座へと向かった。ほんとうは菖一も連れてきたかったけれども、菖一はどうせ目が見えなくて芝居が観られないからと、着いてこなかった。

 ゲーテ座に入ると、周りは異人ばかりだ。その異人達に、緑丸は怪訝そうな目で見られる。それを察したのか、リンネが慌てたようににこにこと笑いながら、他の異人達に話しかけている。

「なんて言ってるんだ?」

 そのようすを不思議に思った緑丸が恵次郎に訊ねると、恵次郎は簡単に返してくる。

「僕達が役者の友人だと説明しているようだ」

「なるほどな」

 リンネの機転のおかげで、異人達の視線もだいぶ柔らかくなった。

 少しだけ居心地がよくなったところで、リンネが中を案内して、広い部屋へと緑丸達を案内する。前方には舞台があって、どうやらここで芝居が行われるようだった。

 リンネに促されるまま席について、幕が上がるのを待つ。客席がだいぶ埋まったところで開演時間になったようで、幕が上がった。

 はじまったのは、今までに見たこともない舞台だった。使われている大道具や小道具が見たこともないものばっかりだったと言うだけでなく、時には静かに、時には激しく展開されるその劇に、緑丸は圧倒された。

 役者達が喋っている言葉もわからないのに、それなのに、ただただ圧倒されたのだ。

 そうして、あっという間に劇は終わってしまった。部屋から出て広間で恵次郎とリンネと余韻に浸っていると、衣装を着たままのバイオレットがにこにこと笑いながら駆け寄ってきた。その姿を見て、緑丸はぱっと恵次郎の方を見てこう訊ねた。

「恵次郎、すごかったって英語でなんて言うんだ?」

「グレートだ」

 緑丸はすぐさまにバイオレットの手を取って、強く降りながら何度も言う。

「グレート! グレート!」

 それを聞いて他の異人達が驚いたように一瞬緑丸達の方見たけれども、バイオレットはそれを気にせずにはにかんでこう返す。

「サンキュー」

 きっとお礼を言っているのだろう。緑丸はなんとなくそう思いにっこりと笑う。それから、バイオレットにこう訊ねた。

「さっきの芝居、なんていうやつだったんだ?」

 バイオレットはすぐに言葉を返すけれども、聴き慣れない単語なので緑丸はうまく聞き取れない。それを見て取った恵次郎が、改めてこう伝える。

「シェイクスピアのハムレットだ」

「シェイクスピア……ハムレット……」

 なぜか印象に残るその言葉を、緑丸が呟く。すると、バイオレットがまた話し掛けてきた。

「台本を見たいかと言っている」

 恵次郎の訳を聞いて、緑丸は頷く。

「見たい!」

 それを見たバイオレットが、恵次郎に話し掛ける。恵次郎はそれをまた訳して聞かせる。

「予備でもらっていた分の台本をくれるそうだ」

「まじで? やったー! サンキュー」

 湧き上がってきた喜びに緑丸がバイオレットに抱きつくと、バイオレットは少しだけ驚いた顔をしてから緑丸を抱き返した。


 それから数日後、バイオレットからもらったハムレットの台本を何度もめくって見てみたけれども、緑丸にはなにが書かれているのかさっぱりわからなかった。

 けれども、この台本の中にあの日見た、圧倒された芝居の内容が書かれているのだ。

 側にいる菖一が緑丸に訊ねる。

「なにを見てらっしゃるんです?」

 緑丸は台本から目を離さずに返す。

「ハムレットって言う英吉利の芝居の台本だよ。バイオレットからもらったんだ」

 それを聞いた菖一が溜息をつく。

「あまり、西洋かぶれるものでもありませんよ」

 それを聞いて緑丸は少しだけむっとしたけれども、菖一がそう言うのは浪花節に身が入らなくなるのを心配してのことだろうと、いったん台本から目を離した。

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