第7話 いざ東京
バイオレットの家で歌を披露した後、やって来た異人の相手をしなくてはいけないからということで、緑丸達はいつもより早い時間に家に帰っていた。
家に着いてから、緑丸に菖一がこんなことを言った。
「ところで緑丸さん、お願いがあるのですが」
「ん? なんだ?」
「弟に手紙を送りたいのですが、代筆をお願いできませんか?」
「ああ、桐(きり)次(つぐ)にか。
わかった、俺の部屋に来い」
緑丸が自室に向かうと、菖一はその後を付いて行く。そして部屋の中に入って、緑丸は文机の前に座り、水と墨と硯、それに紙と筆を用意して墨を擦る。
「何を送りたいか、考えておけ」
墨を擦り終わるまで、菖一に送りたい内容を頭の中でまとめさせる。それから、十分に墨を擦ったら、菖一に書いて欲しいことを話させる。菖一が送りたい内容というのはこういったことだった。
このところどう過ごしているか。こちらは元気にしている。西洋のものはなかなか馴染めないけれども、悪いものばかりではない。けれども、異人には浪花節がわからないようだ。そんな中でも、ひとりだけ浪花節がわかる、見る目のある異人がいる。これは良いことだ。色々とつもる話はあるけれども、よかったらそちらの話も聞かせて欲しい。便りを待っている。
そんなことを、丁寧な言葉で言うので、緑丸はそれをそのまま紙に書いていく。
こうやって、菖一の手紙の代筆をするのははじめてではない。今までにも何度か手紙の代筆をして、菖一の弟の桐次から来た手紙を読んでやったりもしている。
ふと、菖一がこう言った。
「モールス信号で送れれば、私でもできますのに」
「まぁ、俺がいるうちは俺が書いてやるさ」
もしかしたら、菖一はいつも緑丸に代筆してもらっているのを申し訳なく思っているのかもしれないし、もっと気軽に送れればとも思っているのかもしれない。
菖一も、ひとりで東京から横浜に来て色々思うところもあるだろうと、緑丸はなんとなく思うのだった。
菖一の手紙を出してしばらく後、手紙の返事が来た。
「菖一、桐次から手紙が来てるぞ」
緑丸が愛子から手渡された手紙を見てそう言うと、菖一はうれしそうな顔をする。
「読んで貰ってよろしいですか?」
「ああ、今開ける」
手紙を開いて、緑丸は手紙を読む。桐次からの手紙はこのようなものだった。
こちらは特に変わりなく、兄さんと同じように西洋のものには馴染めないでいる。自分が働いている吉原でも時折面倒ごとはあるけれども、おおむね平穏な日々が続いている。ところで、東京の浪花節の組合から、兄さんと一緒にやっている緑丸さんに、東京の寄席に出て欲しいという話が来ている。一考してもらえないだろうか。
それを読んで、菖一はもちろん緑丸も驚いた。
「東京の寄席? なんでまた」
菖一がそう言うと、緑丸がさらに手紙を読む。
「なんでも、清との戦争にあたって、国民の士気高揚のために、横浜で人気の俺を呼んで武芸物をやってもらいたいらしい」
「なるほど、そういうことなんですね」
菖一は少しだけ俯いてから、すぐに顔を上げて緑丸に訊ねる。
「それで、どうなさいます?」
その問いに、緑丸はにっと笑って返す。
「行ってやろうじゃねぇか。東京はどんなところだろうな」
「では、そのように返事を返しましょう」
菖一が早速返事を書いて欲しいと言うので、緑丸は水と硯と墨、それに紙と筆を用意する。
東京から呼ばれるほど、自分の名が知られているというのは、緑丸の心を沸き立たせた。
年が明け少し経った頃、緑丸と菖一は東京へと足を運んだ。先日桐次からの手紙にあった、国民の士気高揚のために寄席に出て欲しいという件でだ。
桐次からの手紙が来た後、緑丸の元にも東京の浪花節の組合から手紙が届き、同様のことを依頼されていた。そして当然、桐次にも返したように、東京の寄席に出るという返事を返していた。
東京は浅草にある寄席の楽屋に緑丸達が入ると、他の浪花節語り達の間にざわめきが走った。
なにがあったのだろうと緑丸が不思議に思っていると、浪花節語りのひとりがこう言った。
「菖一、お前、そいつと一緒にやってるのか?」
その問いに、菖一は涼しい顔で返す。
「そうですよ。今はこちらの緑丸さんと一緒にやらせていただいています。
それがなにか?」
菖一の言葉に、浪花節語り達はまたざわめく。そのようすを見て緑丸は察する。菖一は元々東京で曲師をやっていた。その時に何人もの浪花節語りを弾き殺したと聞いているので、きっとあの浪花節語り達は菖一のことを恐れているのだろう。
浪花節語り達が口々に緑丸に言葉を投げてくる。
「緑丸っていったな、お前の名前は東京まで聞こえてるけどよ、どの程度の実力なんだ?」
「そうだ。半端な実力だと菖一に弾き殺されるぞ」
それを聞いて、緑丸は思わず吹き出す。
「そうは言ってもなぁ。俺まだ生きてるし」
笑いを堪えられないようすの緑丸に続いて、菖一が口元に手を当てて落ち着いたようすで言う。
「今までの浪花節語りは私に弾き殺される程度の未熟者だったんですよ。
あなた達も、私に弾き殺されるのがこわい程度の実力なんですか?」
煽るような菖一の言葉に、浪花節語り達が睨み付けてくる。それをさらに煽るように緑丸が腕を組んでにっと笑う。
「菖一を上手く使えるのは俺くらいだ。
残念ながら、お前らじゃあ手に負えないさ」
「なんだとてめぇ!」
緑丸の言葉に、何人かの浪花節語りが殴りかかってこようとする。それを、付き添っていた弟子が必死に止めている。
「止めてくださいよ、これから寄席がはじまるんです!
ここでケンカして怪我して、上がれなくなったら困るでしょう」
「でも、あいつらは俺らをコケにしたんだぞ!」
「それなら、浪花節で勝負すればよろしいでしょう! 師匠達の方が腕が上だとわかれば、あいつも謝ってきますよ」
弟子の言葉に、浪花節語り達は顔を真っ赤にしてはいるもののなんとか拳を下げる。
「赤っ恥かいても知らねぇからな!」
そういう浪花節語り達が弟子に準備をさせるのを見て、緑丸はにやっと笑って菖一を見る。
「ひゃー、こわいねぇ」
「あまり煽るものではありませんよ」
「いや、先に煽ったのお前だよな?」
澄ました顔の菖一に、緑丸は肩をすくめた。
寄席の舞台に上がり、緑丸が浪花節を披露したのは中程の順番だった。
良くも悪くもないその順番で緑丸は少し苦手としている武芸物を披露し、それでも浪花節語り達の中で一番の好評を博した。
楽屋に帰った後、悔しそうな顔をした他の浪花節語り達と殴り合いにはなったけれども、それがきっかけでみな胸のつっかえが取れたのか、その後の寄席の期間はむしろ仲良く過ごすことができた。
そして寄席の期間が終わり横浜に帰ると、駅で恵次郎とバイオレットが待っていた。
「なんだ、ふたりとも出迎えに来てくれたのか?」
緑丸がそう訊ねると、バイオレットが拗ねたような顔でなにかを語りかけてくる。その言葉の中に寄席という単語があったので、もしかしたらバイオレットも寄席に行きたかったのかもしれない。
確認するようにちらりと恵次郎の方を見ると、恵次郎はこう言った。
「バイオレットも、兄さんの浪花節を東京の寄席で聴きたかったらしい」
それを聞いて緑丸ははにかむ。
「そっか。でも、お前の家でいくらでも浪花節を聴かせてやるからそんな拗ねるなよ」
すると、バイオレットはこくりと頷いて緑丸の手をぎゅうと握った。
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