第6話 天使の歌声

 ある日のこと、緑丸達の家にひとりの男がやって来た。洋服姿のその男は、しばらく前から妹の愛子とお付き合いをしている、近くの教会の牧師で名を夏彦なつひこという。

 夏彦と愛子が出会ったきっかけは、恵次郎だ。夏彦と恵次郎は共に宣教師の下で英語を学んだ学友で、教会ではどんなことが行われているのかと、恵次郎と緑丸、それに愛子の三人で礼拝にお邪魔させてもらうことが度々あったのだ。

 何度も礼拝に行くうちに愛子は夏彦に惹かれ、兄ふたりが知らぬ間に、夏彦に恋文を送っていた。それからすぐに付き合いはじめたわけではないようだったけれども、愛子と夏彦は少しずつ距離を縮めて、今ではすっかり相思相愛の仲だ。

 そんな夏彦がわざわざ家に来るということは。緑丸と恵次郎が落ち着かないままに、出迎えに行った愛子が夏彦を家の中に入れ、居間へと通す。

「夏彦、今日はなんの用だ」

 そわそわしたようすで恵次郎がそう訊ねると、夏彦は緊張した面持ちでこう言った。

「ご両親に、ご挨拶をと思いまして」

 やはりか。と恵次郎と緑丸は思う。複雑な気持ちでいると、心なしか顔を赤くした愛子が障子を開けて言う。

「あの、お父さんとお母さん、いま庭にいると思うから呼んできます」

 ぱたぱたと廊下を歩いて両親を呼びに行った愛子の声を聞きながら、三人は待つ。すると、すぐにまた足音が聞こえてきて両親が居間に入ってきた。

 父がちゃぶ台の前に座り、その隣に母が座る。父がにっこりと笑って口を開いた。

「やあ、愛子から話は聞いているよ。君が夏彦君だね。今日はどんな用かな?」

 その言葉に、夏彦は深々と頭を下げてこう返す。

「愛子さんとの結婚を認めていただきたく、ご挨拶に参りました」

 それを聞いた父は、頷いてから夏彦に訊ねる。

「君のところのご両親は、どう言っているのかな?」

 それを聞いて、恵次郎はそういえば。と思う。夏彦から他の家族の話を聞いたことがないのだ。じっと夏彦の方を見ていると、夏彦はこう言った。

「私は、家を捨ててきた身です。

そんな私が愛子さんを娶るというのは受け入れがたいとは思いますが、それでも、私は愛子さんと一緒にしあわせになりたいのです」

「家を捨ててきたのか……」

 夏彦の言葉に、父は難しい顔をする。それから、膝を打ってこう言った。

「あいわかった。それなら、君はうちに婿養子に来ればいい。

家を捨ててきたくらいだ、もしほんとうに家に帰る気が無いというのであればその方が都合が良いだろうし、愛子も安心できるだろう」

 それを聞いた夏彦は、驚いた顔で父を見る。

「お父さん、それでは……」

 父は朗らかに笑って愛子を見る。

「愛子が選んだ男だ、間違いはないだろう。

母さんもそう思うよな?」

 話を振られた母も、にこにこと笑う。

「ええ、ええ、そうですとも。

夏彦さんの話をしているときの愛子は、とても楽しそうだもの。きっと悪い事なんてないわ」

 あまりにもすんなり話が通ってしまったのが以外なのだろう、夏彦は呆然とした顔で両親と、愛子を見ている。そんな夏彦に緑丸が声を掛ける。

「おう、夏彦。愛子の婿になるんだったら、それなりの覚悟はあるんだろうな?」

 続いて、恵次郎も口を開く。

「そうだ。もし愛子になにかあったらただではおかないからな」

 そのようすを見た父が、緑丸と恵次郎に訊ねる。

「なんだふたりとも。夏彦君になにか不満でもあるのか?」

 すると、緑丸はむくれた顔をして呟く。

「だって、愛子は俺らの妹なんだもん。

急に他の男に取られるってなって、不満じゃないわけないだろ」

 その言葉に恵次郎も頷いている。そんな恵次郎に母が言う。

「そうは言ってもねぇ、夏彦さんは恵次郎のお友達でもあるんでしょ?

信用してあげなさいよ」

 それを聞いて、緑丸も恵次郎も口を尖らせる。ふたりの様子を見た夏彦は、両親よりも兄ふたりの方が手強そうだと思ったようだった。


 兄ふたりがごねはしたものの、無事に愛子と夏彦の婚約が交わされた後、緑丸は夏彦にこんなことを言われた。

「そういえば緑丸さん。緑丸さんが英吉利の方に歌を教わっていると愛子さんから聞いたのですが」

「そうだけど、それがどうした?」

 突然のことに少し驚いていると、夏彦は丁寧な口調でこう続ける。

「今度、教会の礼拝の時に緑丸さんに歌を歌って欲しいんです。

その、とても歌が上手いと聞き及んでいますので」

 その言葉に緑丸は照れ笑いをしながら返す。

「まぁ、やってもいいけどさ。浪花節じゃないんだよな?」

「そうですね。浪花節ではなく、西洋の歌を」

 緑丸は少しだけ考えて、次の礼拝の時に歌を披露するという約束をした。


 そして夏彦の教会の礼拝の日、緑丸は恵次郎と愛子、それに今回は菖一も連れて教会へと訪れていた。教会の中には椅子が並べられていて、緑丸達が座っているのは最後列だ。

 礼拝中、緑丸達は夏彦の説法を聞き、信徒達の祈りを聞く。緑丸と恵次郎は慣れたものだし、愛子は真剣な顔で聴き入っている。けれども菖一ははじめてのことなので、時折首を傾げながら聞いていた。

 礼拝がひとしきり終わった後、夏彦が信徒達の前でこう声を掛けた。

「今日は西洋の歌を学んでいるという方をお招きして、歌を披露してもらうことになっています。もしよろしければ、お聴きになっていってください」

 それから、夏彦が緑丸の方を見て手招きをするので緑丸は席を立ち、夏彦の側へと行く。

 その気配を察した菖一が、恵次郎に小声で訊ねる。

「ほんとうに、三味線がなくてもいいんですかね?」

 その問いに恵次郎も小声で返す。

「大丈夫だろう。バイオレットの家ではいつも三味線無しで練習しているし」

「それもそうですけどねぇ」

 そうしていると、夏彦が緑丸のことを信徒達にこう紹介する。

「ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、この方は浪花節語りの四月朔日わたぬき亭緑丸さんです。

このところ西洋の歌を学び、その歌声がすばらしいということで、この度お願いしました」

 それを聞いた信徒達の一部がざわめく。緑丸のことを知っている者がいるというのもあるのだけれども、浪花節語りというものに良い印象を持っていない者も少なくないのだ。

 訝しがるような視線を受けながらも、夏彦の合図と共に緑丸は歌いはじめる。それは軽快な調子の歌で、どこか神聖さがあり、そしてなにより、その高く澄んだ声に信徒達は圧倒された。誰もが、こんな歌声を聞いたのははじめてのことのようだった。

 一曲歌い終わり緑丸が一礼をすると、信徒達から盛大な拍手が送られた。そのようすに恵次郎と愛子はほっとしたような、満足そうな顔をしていたけれども、菖一だけはどことなく、複雑そうな顔をしていた。


 緑丸が夏彦の教会で歌を披露してからしばらく経った冬の日、バイオレットの希望で異人達の前で歌を披露することになった。なんでも、キリシタン同士のつながりで、宣教師から噂を聞いたとのことで、それなら、緑丸の歌声を他の異人にも聞かせたいと思ったそうだ。

 緑丸は別室で準備中で、恵次郎と菖一は慣れたようすでバイオレットの家の食堂の椅子に座っている。そうしていると、がやがやとした声が聞こえてきたので恵次郎が振り向くと、知り合いとおぼしき異人を何人も連れたバイオレットが入ってきた。

 バイオレットはいつもより多めに並べている倚子に異人達を座らせ、なにかを話している。恵次郎がそのようすを見ていると、異人達はみんな興味深そうな顔をしている。どうやらバイオレットは、自分が歌を教えた日本人がとても歌が上手いということを、何度も話しているようだった。そうしているうちに、異人の中からそれならば早く聞かせろと言う声が出る。それに応えるようにバイオレットが食堂から出るのを、恵次郎は見守った。

 少しして、バイオレットが緑丸を連れて戻ってくる。それを見て、異人のうち何人かが訝しそうな顔をした。おそらく、以前緑丸が浪花節を披露したときに同席していた者だろう。

 ほんとうにそいつが上手い歌を歌うのかと言っているのを、恵次郎が聞く。少しだけむっとしたけれども、ここでケンカをしてバイオレットの面子を潰すわけにも行かないので我慢した。

 バイオレットが異人達の前に緑丸を立たせ、緑丸の紹介をしてから手を振って緑丸に合図を出す。それに合わせて、緑丸は口を開いた。

 緑丸の喉から流れてくるのは、浪花節とは違う華やかな旋律で、抑揚の付いた、高く澄んだ歌声。それを聴いてか、異人達の間から感嘆の溜息が漏れた。

 バイオレットの指示のままに、緑丸は何曲か歌ってみせる。そして歌い終わってから一礼をすると、異人達がみな立ち上がり、割れんばかりの拍手を緑丸に浴びせた。

 恵次郎が口々になにかを言う異人達の言葉に耳を傾けていると、どれも賞賛の声だった。すぐ側でそれを聞いていた菖一が、恵次郎に訊ねる。

「異人達はなんと言ってるんですか?」

 それに恵次郎は、少し異人達の声を聞いて返す。

「すばらしいだとか、想像以上だとか、あとは」

「あとは?」

「天使の歌声。と」

 それを聞いた菖一は、一息ついて呟く。

「緑丸さんをお褒めいただくのはいいんですが、できれば浪花節で納得させたいですねぇ」

 それを聞いて、恵次郎は苦笑いをする。たしかに、緑丸の本職は浪花節語りだ。それを支えている菖一としてはそう思ってしまうだろう。そんなことを思いながら拍手を浴びる緑丸を見ていると、満更でもない顔をしていた。

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