第4話 会芳楼

 ある夏の日、緑丸達がバイオレットの家に行き、いつものように浪花節を披露して歌の練習をした後のおやつ時、お茶を飲みながら饅頭を食べているとバイオレットが緑丸に話し掛けた。その言葉の中に、会芳楼かいほうろうという言葉が聞き取れた。

 会芳楼がどうしたのだろう。緑丸がそう思っていると、恵次郎が真っ青な顔をしてバイオレットに話し掛けている。一方のバイオレットはきょとんとした顔をして相づちを打っている。

「どうしたんだよ恵次郎。バイオレットはなんて言ってるんだ?」

 緑丸の問いに、恵次郎は難しい顔をして答える。

「今夜、会芳楼に一緒に行かないかと言っている」

 それを聞いて、菖一が眉を顰める。

「なんでよりにもよって、清と戦争をしている今、会芳楼へ?

あのあたりは清国人が集まっているでしょう」

「僕もそう言ったんだが、バイオレットは会芳楼に曲芸を見に行きたいらしい……」

 恵次郎が緑丸の方をちらりと見ると、緑丸は期待に満ちた目でバイオレットを見ている。

「曲芸見たい! 俺行きたい!」

「兄さん、なにを言ってるんだ!」

 緑丸が会芳楼へ行きたがったのも、恵次郎が止めているのも、バイオレットはなんとなく察したのだろう。バイオレットは緑丸の手を握って振り、恵次郎になにかを言った。

 それを聞いた恵次郎は、深い溜息をつく。

「……ふたりで行ってくるそうだ」

 盛り上がっている緑丸とバイオレットを見て、菖一が澄ました声で恵次郎に言う。

「それなら、行ってきてもらいましょうか」

「菖一、止めないのか?」

「一度行って痛い目を見れば、もうこんな無茶は言わないでしょう」

 菖一の言葉にも、恵次郎は溜息をつく。痛い目を見るだけで済めばいいが、下手をすれば殺されかねないのだ。できればふたりを止めたいけれども、もうその気になっているこのふたりを止められる気はしないようだった。恵次郎が厳しい声で緑丸に言う。

「わかった。会芳楼に行ってこい。

そのかわり、絶対に生きて返ってこい」

 それを聞いて緑丸は朗らかに笑う。

「わかってる。危なくなったらすぐ逃げてくるからさ」

 緑丸の言葉を聞いた恵次郎は頷いて、続いてバイオレットにも話し掛けている。きっと緑丸に言ったのと同じことを言っているのだろう。恵次郎の言葉を聞いたバイオレットはきりっとした顔で頷いた。


 その日の晩、恵次郎と菖一は先に家に帰し、緑丸とバイオレットのふたりで会芳楼へと向かった。会芳楼周辺は、菖一が言ったとおり清国人が行き交っている。

 きっと、ここにいる清国人は肩身の狭い思いをしているのだろう、突然やってきた日本人と英吉利人を見て、訝しげな視線を投げかけてきていた。

 会芳楼に何食わぬ顔で入ると、中には清国人がたくさん席についていて、前方にある舞台の上で繰り広げられる曲芸を見て喝采していた。

 身体を柔らかく使い、道具を巧みに使いこなすその曲芸を見て、緑丸もバイオレットも圧倒された。そして気がつけば、清国人に混じって拍手をし曲芸師達に喝采を浴びせていた。

 曲芸が終わった後、興奮冷めやらぬといった様子で話し込んでいる清国人達から少し離れた場所に立っていると、先程舞台の上で曲芸を披露していた曲芸師のひとりが緑丸とバイオレットの元へやって来た。

 つまみ出すつもりだろうかと緑丸は一瞬身構えたけれども、それにしては曲芸師はにこにこしている。

「あなた、日本人?」

 曲芸師にそう訊ねられ、緑丸は驚きつつ頷く。

「そうだけど、お前日本語わかるのか?」

 すると、曲芸師はたどたどしい日本語で答える。

「私、日本語、小さいわかる」

 それを聞いて緑丸は、この曲芸師の日本語を聞くのはなかなか大変そうだと思いながら相づちを打つ。

 曲芸師が緑丸に語りかける。

「日本、清と戦うのことする。私達、帰るできない」

 それを聞いた緑丸は、何ともいえない気持ちになる。日本と清が戦争をしている今、清国人であるこの曲芸師も国に帰りたいだろう。けれども、今この国にいる清国人であると言うだけで、行動が制限されてしまっているのだ。その苦労は緑丸には計り知れない。

 緑丸がなにも言えないでいると、曲芸師はさらに話を続ける。

「でも、清、私の街、良くないする。

日本と戦うのことして、私の街、もしも良くなる」

「ん? どういうことだ?」

 ふっとバイオレットの方を見るけれども、緑丸の日本語もわからないバイオレットが、この曲芸師が喋っているたどたどしい日本語をわかるわけがない。きょとんとしてしまっている。

 曲芸師の言葉を頭の中で反芻して、整理する。もしかしたらこの曲芸師は、生まれ故郷が清に脅かされていて、日本が清に戦争を仕掛けたことで、清が生まれ故郷への影響を弱めるかもしれないと言いたいのかもしれない。そう思った。

 緑丸が曲芸師に訊ねる。

「お前、どこの生まれだ」

 曲芸師は首を傾げて少し考え込んでからこう答える。

「チャルチャン」

 それは街の名前なのか、それともなにか他の意味がある清の言葉なのか、緑丸にはわからなかった。

 ふと、曲芸師が手を差し出してきた。緑丸も手を差し出すと、ぎゅうと手を握られた。それから、曲芸師はバイオレットにも手を差し出す。バイオレットも曲芸師と握手をして、それから会芳楼を後にした。


 日本人町へ向かう途中、バイオレットが緑丸の方を見て声を掛けてきた。

「ミドリマル」

「ん? どうした?」

 緑丸が返事をすると、バイオレットが手を繋ぎ、日本人町の方を指さしてなにかを言う。詳しくはわからなかったけれども、家まで送ってくれるのだろうなと思った。

 家まで帰る道中、緑丸は会芳楼でのことを思い出す。すばらしい曲芸と、あの曲芸師の言葉。

 どう表現すればいいのかがわからない、複雑な気持ちが、緑丸の心を占めていた。

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