2.まさに黒

土足で上がった畳は傷んで痛んでいた。

見知ったボロアパートに新を連れ込んで、


「しゃちょーしんちゃんみつけたよー」


銀座が大きな声でご報告。

報告されたしゃちょうは、満足げに三日月をひん曲げた。

白いスーツに安い剥き出しの蛍光灯が反射して、いやに純白。

赤いネクタイに黒いシャツの胸元で貴金属がだらりと輝きまさに、黒。


「お帰り新くん、外寒かったろ」


口は三日月、目は鋭利。

そう言ったのは、まごうことなく新のぱぱだった。

目つきだけなら新はぱぱに似ていた。

似るわけがないのに。


「あんまり、俺を心配させるなよな、新くん」


二十代後半の外見に、人を見透かすような表情ばかりうかべるぱぱ。

正確な年齢を新は知らない。

本名も碇屋青梅(いかりやおうめ)とは言うが、本当かどうかは知らない。

その上新の父親でもない。

血も繋がっていない。

どんな経緯で自分がこの男に引き取られたのかも、新は知らなかった。


ぱぱは質の良い椅子に足をくつろげて座っていた。

赤いテーブルに空のグラスを置いたまま、背もたれに深く寄りかかってまさに、悪。


「新くん」


ぱぱの背後から裸エプロンが這い出る。小鳥のような声を吐いた小柄で童顔の男(まま)だ。

犬のように四つん這いで這いずって、ままは新の足にすり寄った。背後で銀座が汚い笑いを零す。


「新くんは、ぱぱとままを困らせる天才だ、ね、まま」


愛おしそうに犬姿のままにぱぱは声を掛ける。

ままはこくりと頷いて、愛おしそうに息子の足に擦り寄った。


悪夢のような現だ。

目眩を覚える、けれど表情は殺す。

感情は屍とする。

三日月がいっそう弓形に。


「新くんは、頭が良い子なのに」


残念そうに首をゆらゆら。

自然と胸元を探るぱぱ。


「新くんは、頭の良い子だもんな」


そうそうと、思いついたように表情を明るくさせる。

目線は新ではなく足元に愛撫を繰り返すままへ。

壊れているまま。

おかまのまま。

淫靡で風紀を乱す、新の育ての親。

これは母親ではない。

母親は女のはずだ。

どんな女かは知らない。

物心ついた時には、コレがまま。

だから。

だからこれは、母などではない。

指先が千切れそうになった。

けど、でも、でも。

育ててくれたのは、このままだ。

笑って撫でてくれたのは、このおかまだけ。

新はぱぱを睨み付けた。

ぱぱは余裕の微笑みを浮かべ、まるで悪だった。


「新くん」


ぱぱが顔に影をかけた。

それだけでがらりと変わる。

その筋の人間にも見えた。ホストにも見えた。

整った顔つきで、けれど並の人間ではない。

纏う空気は日常とはほど遠く、刃物のような目つきだった。

新は理由を。

理由が、理由を探しだす。

頭の中で理由を模索する、次の台詞を言われる前に、理由を、理由を。

ままが、新のズボンの裾をはむ。

あの黒いのとの会話は夢だった。

まるで平和だった。

できることならいつまでもああしていたかった。

啖呵を切って飛び出したい。次の台詞を言われたくない。断る理由を導きたい。

なのにままが、幸せそうに擦り寄り続けるから。

見捨てられない。

見捨てれば、そこで。


「新くん、今日もたくさんお薬打っておいで」


どん、と。

爆撃のように。

テーブルにカードを置かれる。

薬を保管しているロッカーのキーだ。

苦い。

苦しい。

苦い。

錆び臭い。

血が、凍る。

それでも、泣けもしないのに顔をかがめて、カードを力任せに毟り取る。

握りこんでもカードの角は弧をを描き。

割れることもなく掌中に収まってしまう。

理由がない以上、これ以上抵抗しても無駄だ。

新は、息を呑んだ。


「…母さん、出かけてくる」


足元にままに優しく告げる。

ままはとても嬉しそうに微笑んで、それから思い出したようにして部屋の押入を開けた。

立たれると、目線は限りなく下になり、ままが若々しく妖艶であることを見せつけられる。

不愉快に。


「きおつけてね、新くん」


はい、マフラー。

そう呟いて床にたたき付けたマフラーを巻いてくれた。

母が、笑った。

裸エプロンの男なのに。

だから新は笑ったつもりで銀座に目もくれず部屋を出て行った。

薄いドアの向こうで、すぐにぱぱが銀座を罵る声がする。

内容はどうでもいい。

背中に響く父親の怒号が、新の生気を奪っていく。それで、良い。

最低の底をドリルで掘り進んでいるのだから。

底はない。

死なないかぎり、ない。

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