8.麋角解る日**

撫子は寒椿と談笑していた。

室内は適温。

どことなく花の香りがしたが、末棄の金木犀に勝ることなく。

忙しいを口にする暇もないほど忙しいはずの末棄。

危険に身を晒しているはずの末棄。

守るべき人がいるはずだったのに、なぜか兄嫁の護衛をしている自分。

その事実が、生きてきた三年間の中でもっとも辛く。

更に、末棄にお前入らない発言を芋づる式で思い出してしまう。

目尻が熱くなり、胸が痛む。

もう、押し殺す意味もない心が、酷を内部から痛めつける。

外傷なんていくら追っても平気へっちゃらな酷は、心の痛みにますます縮こまり小さくなっていった。


末棄に嫌われてしまった。


理由は分からない。


人が人を嫌うとき、理由などないことも多々ある。


嫌になったのだ。


あの時、撫子を攻撃しようとしていた。それがきっかけか。


何が嫌だと思われたのか。


いやもう、考えても無駄だ。

捨てられてしまったのだから。

何も残ってない気がした。

でくの坊になった、からっぽの落花生。

首藤を罵る末棄の言葉が、今まさに胸に刺さる。


「酷様?」


均等の取れたその身を小さくさせていた酷に、撫子は躊躇うように声を掛けた。

寒椿は放っておけば良いというような表情を浮かべていた。


「酷様は甘い物がお好きと聞きました。甘いお茶でもいかがですか?」


甘い、と聞いて黒い頭が反応する。

不味い美味い興味なく強化人間用のペレットを口にしていた酷に、末棄がどれかひとつぐらい好みの味があるだろうと探ってくれたのだ。

辛いしょっぱい苦い酸っぱい、どれも好めなかった。

けれど甘くて熱いココア、それに表情を変えてしまった酷を、末棄は優しい微笑みで喜んでくれた。

それ以来末棄は酷にココアや甘いものを与えるようになった。


あの関係に、戻りたい。


棄てられた。


嘘だと、思いたい。


そばに、末棄は居ない。


酷は大きな溜息を吐いた。


「酷様…わたくしは、変若水の子孫繁栄のために造られた強化人間でござりまする」


その上心を持った自分と同じ特殊強化人間だ、と酷は膝を抱え毒突く。


「わたくしはいつか使い潰されるでしょう」


なにを、と撫子を見る。

その眼はすべてを悟った僧侶のようだった。

慈愛に満ちた、強化人間と真反対。


「けれどわたくしには心がござりまする、寒椿めもござりまする、そしてこの子も」


優しくそっと、儚い命を撫で愛で、その腹を慈しむ。


「それを選んだのは、わたくしの自由でござりまする」


ようやく顔を上げた酷を毅然と見つめながら、撫子は続けた。


「わたくしは心を持って自由を知りました。酷様、酷様はわたくしの生まれを哀れむ優しさ、心がござりまする。わたくしには分かりまする」


母親だからか、人畜無害だからか。

やはりこの女は恐ろしい。

酷は逃げ出した気分だった。

けれど、自由?


「どうか、酷様も自由に。末棄様も自由にと、おっしゃっていたではありませんか」


その微笑みは不気味なほど人のようで、酷は誘われるように立ち上がっていた。


「人を想うのに理由がござりましたか?」


ない、即答出来る。


「わたくしたちは自由。無敵でござりますれば…どうかお心のままに…」


それきり撫子は己の腹に目を落とし、口角を上げたまま。

酷は、そうだった、と。

自由に。

そうだ、自由だ。

撫子は言った。

同じ心を持つ強化人間の口で、自由に。

たった四文字。

意味は辞書を引かずともすんなり解釈。


酷は、押さえつけることを止めた。


ただの強化人間であることを止めた。


この時始めて、自由に自分を解放した。


一瞬にして想いが思考が溢れ出て、体から零れそうな感覚に震え上がる。


自由だ。


自由だ。



想おう末棄を。


守ろう末棄を。


嫌われても構わない。


自分の存在理由末は末棄であり、世界の中心は末棄なのだ。


この造られし生物に宿る魂には、灯って消えない想いがある。


もう嫌われているのだ。


これ以上嫌われることがあるのか。


黙っていつまでも傍に居ても良いのだ。


自由なのだから。


そう思うや否や、酷は黒い弾丸。


変若水家本家のセキュリティを雲のようにかいくぐり、街へ飛び出した。

その姿はまるで黒い鳥。

空を飛ぶように、前へ前へ。

末棄を探した。

誰か歌を歌っているのか?

街から溢れる音が、優しく囁く歌声となって酷の鼓膜を撫でる。

冷たい空気をのっとって、穏やかなリズムに乗っ取って。

自分が持てるすべて使い切って、粉雪舞う街の中から、末棄を想いその姿を追い求めた麋角解る日。

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