第5話 役目
警笛は手から離れたが、首からぶら下げているのでからからと胸元で揺れる。
殴られた頬が熱を持ち、エステルは痛みに顔を歪めた。
次第に軍靴の音がこちらへ向かってくるのが聞こえてきた。
エステルは逃げようとしたラファエルの足を掴み引き倒した。
「おい、離せっ」
爪先がみぞおちに入って息が詰まる。
「マリー、逃げて!」
彼女は足が竦んで立ち尽くしているようだった。
「おい、ふざけんな。離せよ」
ラファエルは懐からナイフを取り出した。
マリーが短い悲鳴を上げた時、騎士隊がわらわら走り寄ってきた。
ダルマスが駆けつけ、マリーの腕を掴んで胸元に引き寄せる。
大事なものを守るように。
これで安心だ。彼は自分の命よりもマリーを守るだろう。
エステルはラファエルの足を離した。
だが、今度はラファエルがエステルの肩を掴みナイフを喉元に当てる。
「この女がどうなってもいいのか!」
自分に向けられている銃口や切っ先を下ろすように怒鳴る。
騎士隊に囲まれているので逃げる余地はない。無駄な抵抗だとはわかっているはずなのに、微かな希望に賭けているのだろう。
「彼女を離せ」
マリーを出来るだけ遠ざけて、ダルマスは最前列に立った。半歩後ろにパスカルもいる。
「うるせえっ、銃と剣を置け!」
ダルマスはパスカルを振り向き、目配せをした。
パスカルが片手を上げると、隊員は銃や剣を置いた。
「お前もだ」
ラファエルはダルマスに向かって命令する。ダルマスはゆっくりと屈んで、銃を地面に下ろそうと従う意志を示した時だった。
半歩半身ダルマスの後ろに隠れていたパスカルの腕が上がり、銃声が響いた。
肩を撃たれたラファエルは甲高い悲鳴を上げ、ナイフを落とした。
隊員が旗を取り合うゲームのようにラファエルに襲い掛かる。
あっという間に勝負はついた。
「エステル!」
駆け寄ってきたマリーに抱き締められて、ようやく一息つけた。彼女の温もりをもっと感じたくて腕を伸ばした時だった。
びきん、と腰に覚えのある痛みが走った。
「……あっ」
エステルは再び担架に横向きに乗せられることとなった。
☆
ラファエルとの縁談を持ってきたのは父だった。
母が病につき先が長くないと知って、少しでも母を安心させるためにというのが表向きだった。
しかしその裏では当時すでに現在の継母と関係を持っており、再婚を画策して母亡き後にエステルをていよく屋敷から追い出そうとしていたのだ。
昔は優しかった父は彼女と知り合った頃から変わってしまった。
婚約者のラファエルは王都の貿易商の息子で、その界隈では少し名の知れた遊び人だった。
オーリック家は浮ついた息子を落ち着かせるためにこの縁談に乗り気でいた。
当の本人は不本意だったようで、婚約の顔合わせを含めて会ったのは片手で数える程度だった。
結婚してからも、ラファエルは相変わらず遊び歩いて愛人もいた。
婚家にも時折、何のために嫁をもらったのかわからないと暗にほのめかして言われるのもしばしばだった。
エステルの役割はラファエルを落ち着かせること。
その役割を果たせてないなら、結婚した意味はない。
離縁を切り出したのは今から一ヶ月前だった。あることを知った義両親も反対することはなかった。
一応、結婚した時にも挨拶だけはしたので、屋敷に戻って父に報告をしたら行く宛てが決まるまでここにいてもいいと言われた。
だが、この屋敷も左前で、少なくなった使用人の補充としてでしか扱われなかった。
それでも、とエステルは思っていた。
役割を果たせているならそれでいい、と。
☆
医師の怪我の手当てが終わり、再発したぎっくり腰のためベッドに横向きになって寝ている。
マリーが付き添って、何くれとなく世話をしてくれるので助かった。
服が汚れて顔も髪も泥だらけになり、風呂に入らなくてはならなくなったのでマリーの手を借りて慎重に入って隅々まで洗った。
「……いつからなの」
マリーは先程までベッドの端に伏して泣いていた。
ようやく顔を上げて、泣き腫らした目でエステルに問いかける。
介助がなければ入れなかった風呂で、彼女はエステルの背中にある痕を見てしまったのだ。
全て治って傷口は塞がったが、明るいところで見ると消えることのない白い痕がそこにある。
「あの人のお遊びが過ぎるから、さすがにお義父様が外出を禁じたの。半年くらい前だったかしら」
義父は跡取り息子の素行の悪さを懸念して夜間の外出を禁止した。
だが、ラファエルは元来から大人しく一つ所にいることができない性質で、禁じられたという処遇も受け入れ難いこともあって、日に日に鬱屈を溜めていた。
ある時、エステルが外出して遅くなり夕食に間に合わなかったことがあった。
夕食は抜かれて、夜呼び出された。
「どこで遊んでいたのかとか、誰といたのかを聞かれて、不貞を働いているのではないかと疑われたわ」
それは誤解だったが、どんなに言葉を尽くしても彼は話を聞き入れようとはせず、エステルを罵った。
それからどんなことでも彼の勘気に触れた途端に怒鳴られ、手が出ることもあった。
「何で相談してくれなかったの」
王都にいて、マリーとはたまに顔を合わせていた。
「何て説明していいかわからなくて」
穏やかに暮らしている兄夫婦に心配をかけたくなかったのもある。
だが自分ではどうにもできないのが情けなくて、誰かに言うことができなかった。
そして今から一ヶ月半前、ラファエルの鬱屈は溜まりに溜まって破裂した。
その夜はナイフを手に持っていたのだ。
「さすがに声を上げたから使用人が止めに入ってくれたわ。それから治療も兼ねてしばらく教会に身を寄せていたの。お義母様が怒鳴り込んできたけど、この傷を見せたら離婚するように手筈を整えてくれたわ」
マリーはエステルの手を握り、もう一度ベッドに顔を伏して何もできなくてごめんと何度も言った。
誰にもどうすることもできなかったのだ。だからマリーが謝ることはない。
そうなるまで逃げ出さなかった自分もいるので、どうして助けてくれなかったのかと責めることはできないのだ。
衝動を抑えるストッパーは誰にでもあるが、世の中の全ての人が同仕様とは限らない。
特別固い人もいれば、ラファエルのようにゆるゆるの人もいる。
「縁があった人がたまたまそうだっただけ」
それだけだと言うと、マリーは顔を上げて涙を拭った。
「ねえ、一緒に修道院に行かない? 二人なら嫌なことあっても愚痴を言い合えるわよ」
突拍子もないことを言い出したので思わず吹き出してそうになり、腰に響いて眉を寄せたが口角は下がらなかった。
「ふふっ、それも面白そうね」
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