第4話 椿

 エステルとマリーは花が数える程しかない残っていない椿の木の前で立ち止まった。


「あと一日か二日で王都から執行官が到着するみたい」

 ポールから聞いた、とマリーは情報源を明らかにした。


 執行官が来れば、騎士隊は引き継ぎと警護の数名残して帰還する。


 ダルマスは隊長なので、帰還する隊を率いていくだろう。


 それにしても、マリーはダルマスのことをいつの間に名前で呼ぶようになったのだろうか。


 リハビリにマリーを誘って庭に出てきたはいいが、何だか治りかけの腰がこそばゆくなりそうだ。


 だが、何となく二人の雰囲気がいいのは見ていてわかっていた。


 ダルマス隊長がマリーに一目惚れしたと噂ではあるが漏れ聞いていて、マリーも嫌がる様子もないので静観していた。


 マリーはまだ地味な色の服を着ているが、服喪期間は明けている。


 なので彼女を縛るものはない。


 エステルは細く息を吐いた。

「あなたは本当に良くしてくれました。短い間でしたが、兄も幸せだったと思います」


 兄は亡くなり、二人の間には子供もいない。

 これから先、神の御許に行くまで亡夫に操を立てて修道院で過ごすより、もっと幸せになる道がすぐ目の前に開けているのなら、そちらに進んで咎めるようなことをするはずがない。

 そんな資格は自分にはない。


 そして、兄は弟が生まれた時に廃嫡している。マリーがこの家の業を引き受ける必要もないのだ。


「ダルマス隊長について行っても、誰も咎めないわ」


 今、彼女の心はエステルの前なので義理に縛られている。そして、その中には兄と共に暮らした日々の愛着もあるのだろう。

 善良で優しい女性なのだ。


 だから、とエステルは思う。

 生きている間にもっと幸せになってほしい。


「そうしたからあなたはどうなるの? エステル」

 大きな翡翠色の目に涙が浮かんで今にもこぼれ落ちそうになる。


「私は大丈夫よ。誰が責任を取らなくてはいけないのですから」

「何であなたなの? あなたは何も悪いことしてないじゃない」

「ゴーティエ家の人間は、ここには私だけですから」

「どうして父親の責任をあなたが取らなくてはいけないの」


 そういう役割なのだ。

 そう言ってもマリーは納得しないだろう。だが、エステルの中では十分に平仄がとれている。


 まだ乾き切らない落ち葉を踏んだような音がした。


「私、やっぱりポールに……」

 言いかけたマリーが、はっと鋭く息を飲んでエステルの背後を凝視する。


 エステルもその目線を追って振り向くと、椿の木の脇から男が現れた。


「……エステル、俺だよ」


 掠れてはいるが、聞き覚えのある声。

 髭はまばらに伸び、いつもは髪一本でも乱れるのを嫌がって櫛を手放さなかったのに、今はボサボサで目元にまでかかっている。

 服は膝が白くなり、靴は泥でくすんでいる。


「ラファエル……」

 エステルの元夫のラファエル・オーリックだ。


「驚かせてすまない。お前に会いにきたんだ。でも、この屋敷も騎士隊が来ているんだな」


 マリーはエステルの腕を引いて後退りしようとしたが、それよりも先にラファエルに捕まった。


「お前が勝手に出て行ったせいで、僕はお父様の跡を継げなくなったんだぞ。代わりにあの愛人の息子が継ぐことになったんだ」


 元夫ラファエルには同い年の異母弟がいる。元義父は常々二人を競わせ、優劣をつけて得点の高い方を後継者にすると公言していた。


 愛人の息子とはいえ、母親は元舞台女優で近隣の国の言葉は話せるし計算も早いと聞いたことがある。


 正妻の息子ということで放蕩を繰り返してばかりのラファエルと、真面目に経営を学んで働いている異母弟とでは、自ずと勝負はついているようなものだったが。


 だが、どうやら雌雄は決したらしい。


「勝手ではありません。お義母様もお義父様も納得していただきました」


 ラファエルの目は血走り、エステルの腕を掴む手は更に強まる。


「僕のいないところで話をつけて出て行ったんだろう。僕はそのせいで失格の烙印を押されたんだ。お前が勝手なことをしたお陰でな!」


 元々、話があまり通じない相手だと思っていたが、一層酷くなってこちらの話など聞こえてないような様子だ。


「ちょっと、放しなさい」

 マリーはエステルの腕を掴んでいるラファエルを引き離そうとしたが、軽く手を払われた。


「マリー、屋敷に戻って!」

「おい、騎士隊に通報するんじゃないだろうな」

 

 この時、ラファエルの手が少し緩んだ。

 エステルはこの隙に首から下げて服の下に入れていた笛を取り出して吹き鳴らした。


 腰が痛くて動けない時に、または何か緊急事態になった時用にと、副隊長のパスカルがくれたものだ。


 それは騎士隊でも使用している警笛とだけあって、軽く吹いただけでも甲高く響き渡る。


「やめろ!」

 エステルの手から笛を奪おうとするが、エステルも容易に離さなかった。


「やめろって言ってんだろ!」


 ラファエルの拳が頬に当たった。

 警笛は落ち、エステルはバランスを崩して倒れ込んだ。

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