第3話 リハビリ
春はまだ遠い三月の始めで、昨日まで二日続けて雨が降った。
屋敷に騎士隊が来てから一週間が経った。
従軍の医者に毎日湿布をもらい、ぎっくり腰も徐々に改善している。
コルセット緩くつけてはいるが、脱ぎ着しやすいのでまだ継母の妊婦用の服を借りて着ている。
医師から痛みが和らいできたら無理な姿勢をせずに軽く運動するように勧められたので、今日は朝から晴れているのでエステルはリハビリを兼ねて庭を散歩している。
屋敷や近郊の町まで捜索をして潜伏している可能性や戻ってくることも含めて滞在している騎士隊は、空っぽの屋敷の中で規則正しくはあるが自適に過ごしていた。
通りかかった庭では、どこからか調達してきたボールでサッカーをしている隊員がいる。
エステルが差し掛かると、遠いけれどもボールを止めて挨拶をしてくれた。
せっかくの楽しみを中断させて申し訳ないので足早に去ろうとするが、まだ完治していない上に杖をつきながらなので気ばかり焦って歩みは遅い。
影響のない場所に移動した頃には、軽く息が上がっていた。
午後のリハビリはこのくらいにして、自室に戻ろうとした時だった。
庭はまだ葉も芽吹かない頃合いだが、その寒々しい枯色の中に咲き残っている椿の木の前で、見覚えのある二人の背中が見えた。
「これは先代の当主が知り合いの貿易商から譲り受けた藪椿です」
「ほう。寒い時期に花を咲かせる花とは珍しいですね」
マリーは落ちた赤い花を拾って手に載せ、ダルマス隊長がそれを覗き込んでいる。
「普段は王都におりましたが、年末の休暇でここに来る時には、この花が咲くのを楽しみにしておりました」
兄は爵位を弟に譲って継承を放棄し、大学に残り教鞭をとっていたため王都に住まいを持っていたが、たまの休暇で帰省もしていたようだ。
二人の話は続いており、邪魔をしてもいけないのでエステルは足音を立てないようにそっとその場を離れた。
ダルマス隊長はここへ来てからずっとマリーを見ている。
どんなに見ていても飽きたらないという感じだ。
それが何を表しているのか、エステルでもわかる。
あれは恋をしている瞳だ。
庭を抜け、勝手口から建物に入るとアントンにすれ違い、騎士達に薪割りを手伝ってもらったと報告を受けた。
騎士隊の隊員は、使用人のほとんどいないこの屋敷で何くれとなく手を貸してくれる。
これも上官の命令のようだった。
身動きのままならないエステルにとってはありがたいと感謝するばかりだ。
騎士達からの不満もほとんど聞こえてこないし、ダルマスやパスカルがいいように采配してくれているのだろう。
エステルは疲れたので廊下の壁に肩をつけ、小休止することにした。
壁に背中をつけて休めば体重が分散されるのだろうが、腰が痛む今はこの体勢の方が楽なのだ。
「大丈夫ですか、エステル様」
背後から声を掛けられたが、すぐに振り向くことはできなかった。
のそのそと体の向きを変える前に、声の主であるパスカル副隊長が回り込んできた。
「リハビリで歩いておりましたので、少し休んでいただけです。この姿勢の方が楽なので」
具合が悪いのかと誤解されかねない体勢だったのは否めないのできちんと説明すると、彼の真ん中に寄っていた眉もゆっくりと離れた。
「先程、伝令がありまして、先日の雨でこの先の街道で土砂崩れがあったそうです。政府の執行官が来る予定が遅れるかもしれません」
執行官は当主の不在になった領地のことを代行する政府の役人だ。
その人が来るまで引き継ぎができないので、騎士隊もここに足止めとなる。
パスカル副隊長はそう告げてもうしばらく厄介になると頭を下げた。
「いいえ、こちらこそ。こちらも皆様がいることで私達も助けられております」
いつの間にか蝶番の外れた窓が直っていたし、使用人のいなくなった屋敷は盗賊に狙われやすいと聞いているので、彼らがいることで抑止力になっている。
それら一つ一つ、エステルは感謝を持って礼をしている。
「お体も万全ではないので不安なこともおありでしょうが、我々がここにいる間は貴方はご自身のことだけを優先してください」
パスカル副隊長の言葉は社交辞令であっても頬が緩んだ。
「あ、そうだ。これ、もしもの時のために」
上着のポケットから出した銀色の笛を差し出した。
「警笛です。軍用ですので、わずかな呼気でもよく鳴り響きます」
動けなくなったり、助けがほしい時はこれで呼べという。
「ありがとうございます、パスカル副隊長」
受け取るために体を起こそうとしたが、パスカルはチェーンを首に掛けて渡して寄越した。
「お顔の色が優れませんね。部屋までお供します」
そう言って、エスコートのために左腕を差し出した。
一人でも帰れるのだが、パスカルの好意を無碍にするのも申し訳ないので手を添えた。
パスカルはエステルに合わせてゆっくりと足を進めながら部屋まで付き添った。
他愛もない話をしながらだったが楽しかった。
夫の時には胃が縮むような思いしかなかったので、正直なところ新鮮だった。
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