あたしのマグロ丼見ませんでしたか

 ばあちゃんの部屋からは海が見える。

 ばあちゃんからは空しか見えないかもしれないけど、窓を開ければ波音もするし、風向きによっては潮の香りも漂ってくる。


「ばあちゃん。また来たよ。ミナミだよ」

「あたしのマグロ丼見ませんでしたか……」


 ばあちゃんはそれしか言わなくなってしまった。

 母さんは言う。口から物食べられなくなったらおしまいだ、って。母さんは昔ばあちゃんといろいろあったみたいだからしょうがないのかもしれないけど、私としてはそこまで言うことないのにな、と思う。


「あたしのマグロ丼……」


 でもこの状態のばあちゃんを見ると、それは一面の真実なのかもしれない、と思えてくる。

 ばあちゃんはお腹に管を刺されて身をよじることすらできない。

 延命治療を選択したのは私たちだ。ばあちゃんが何を求めているかはもうわからない。


「あたしのマグロ丼見ませんでしたか」


 少なくとも、マグロ丼以外のことについては。

 92歳のばあちゃんは70年前に囚われている。漁港で働いていたじいちゃんとの初デートで漁港の食堂へ行き、マグロ丼を食べたんだそうだ。

 それがとびきりおいしかった。その記憶を反芻するうちに、ばあちゃんの脳はこの病室を食堂に変えてしまった。

 奇しくもここは海沿いで、近くに漁港もある。

 でもここにはマグロ丼はない。当たり前だ。

 そしてじいちゃんももういない。私が物心ついたころにはすでに亡くなっていた。

 だから、ずっと探している……。


「あたしの……」


 私のことはその食堂の若い店員か何かと思っているみたいだった。

 ここにはマグロ丼はない。ただの白い病室でしかない。

 でも、今日は違った。

 私は手元を見やる。そこにはばあちゃんの求め続けるものがある。

 近くの漁港で買ったマグロ丼──。

 当然だけど、口から食べ物を入れれば今のばあちゃんはきっと無事では済まない。

 でも。それでも。

 このまま、このまま「おしまい」の状態のままでマグロ丼を求め続けて、そしてそれが手に入らないまま人生を終えるのか。

 だったら、それと比べたら──。


「あたしのマグロ丼見ませんでしたか」

「ばあちゃん」


 時が止まる。

 ばあちゃんの前にマグロ丼を差し出す。

 ばあちゃんの目に生気が戻った気がした。


「……」


 いや、生気が戻った。確かに。ばあちゃんはマグロ丼を見、私の顔を見、そしてもう一回マグロ丼を見て、言った。


「あたしのマグロ丼、見ませんでしたか」


 ◆


 病室を後にして、休憩所に腰を落ち着ける。潮の香りはしないが、波の音はかすかに聞こえてくる。

 結局、そういうことなのだろう。

 ばあちゃんのマグロ丼は、ばあちゃんの中にしか存在しないのだ。

 だいぶ差し出がましいことをしてしまったな、と私はばあちゃんにあげられなかったマグロ丼を頬張りながら思う。

 抜群においしかった。なんていうか、マグロの脂が全然重たくなくて、マグロって実際そんなに好きでも嫌いでもなかったけどこれは好きになってしまうな、と思わされるような味だった。

 今まで食べたマグロの中で一番美味しかった。

 でも。あの日ばあちゃんが食べた、初デートの緊張感と、じいちゃんの笑顔と、なにもかもがないまぜになったマグロ丼の味には、きっと遠く及ばないのだろうな、と思った。


(了)

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