第23話
「あ。そうだ、まかないどうする? なにがいい? この駅ビル、食堂もあるし、レストランに行ってもいいけど」
佐倉さんが言った。今日のお昼をどうするか全く考えていなかった。
「まかないって選べるんですか」
「ああ、丼モノが食べたかったらパートの人に言えば作ってもらえるよ。この厨房なら太巻きが好きなの食べられる」
「じゃ、じゃあ、ねぎとろの太巻きが食べたいです」
はーい、と七辻さんの声が聞こえる。七辻さんが至急作ってくれたねぎとろの太巻きを、佐倉さんが食べやすいように切ってくれる。お礼を言って休憩室に行くとタイムカードを押して座る。白く四角い机があったので、太巻きを置いた。立ち仕事のせいか、足が酷く疲れている。三木さんがやって来た。休憩のようだ。
「お疲れ様です。あら、太巻き食べるの?」
「お疲れ様です。はい、まかない、頂いています」
「そっか。野本君と色々世間話でもしたいけど・・・・・・」
「外に食べに行くのですか」
「うん。食堂で一息つきたくてね」
「食堂ってどんなものがあるんですか」
「定食にラーメンに・・・・・・色々あるわよ。しかも安いし、全面ガラス張りで外も見られるの。野本君も外が見たくなったら食堂を使うといいわよ」
「そうなんですね。教えて頂いてありがとうございます」
三木さんは去っていった。食堂か。一度くらいは金銭的に余裕のあるときに、行ってみよう。きっと、食堂の料理もおいしいのだろうなぁ。
そう思いながらねぎとろの太巻きを、パックに備え付けられていた醤油をかけて食べる。
小学校低学年の頃、両親と行った回転寿司で、ねぎとろの軍艦巻きが大好きになった。
ピンク色に緑のネギ。ねちゃっとした食感。あれを食べていたときに、両親と俺でなにか面白い話をして笑っていたからかもしれない。
なにを話したのかは忘れたけれど、学校で起きたことだったように思う。俺の話したことに、両親は腹を抱えて笑っていた。あの時は父さんにもまだ笑顔があった。ねぎとろは、俺にとってそんな幸せの味なのだ。一昨日も、ねぎとろは最後まで残しておいたくらいだ。
そうだ。飲み物がない。水筒でほうじ茶くらい持ってくるべきだった。考えなしの自分に嫌気が差す。外に飲み物を買いに行き、また休憩室に戻った。
疲れでぼんやりしていた。一時間が経つと、タイムカードを押して厨房に戻る。
七辻さん、佐倉さん、結衣さんが交代で休憩に行く。結衣さんの休憩時間は三時だ。こんな時間に昼食って過酷だ。戻ってくる頃にはもう四時を過ぎていた。
でも本人は慣れているのか気にしていない様子だ。寿司作りにも大分慣れたし、覚えてしまうと楽。
マグロの唐揚げは既に完売らしい。
四時半になると、結衣さんが言った。
「じゃあ、掃除して終わろうか」
掃除の仕方を教わる。まずは機械を分解し、洗剤をつけて洗うのだ。太巻きを作る機械も結構重かった。ねじの部分とか細かいところが結構汚れているので念入りに洗う。
そうしてまた機械を元に戻す。結衣さんがシャリ機を分解して洗っていた。七辻さんは冷蔵庫の中や台の上を綺麗に拭き、佐倉さんは床をブラシで洗う。一昨日感じた生臭さと消毒の臭いもこれで理解が深まった。衛生管理は徹底されている。
三十分かけて掃除を終えると、前田さんと吉村さんが来るのが厨房から見えた。
「はい、野本君、佐倉さん、七辻さんはお疲れ様。帰って下さい」
「結衣さんは?」
「残業。九時までレジだよ。もう少し人が入ってくれると楽なんだけど」
午前八時から午後九時勤務。人手不足とはいえ、ここも長時間労働があるのか。そういえば初めてバイトに入った日も結衣さんは厨房から出てレジをしていた。残業をしていたのだろう。
ここも割と……ブラック? でも、いい人が多い。
「ではお先に失礼いたします」
お辞儀をして休憩所へ行き、タイムカードを押して一息つく。
誰もいないうちに急いで着替えると、相模店長がやってきた。挨拶をする。
「お疲れ様です」
「お疲れ」
店長は棚から長方形のカードを取り出し俺に渡した。
「はい、入館証。できたよ。なくさないでね」
「ありがとうございます」
顔写真入りの入館証。なんだか貰って嬉しくなる。
「これで俺もこの駅ビルの一員ですね」
「なーに言っているの。純粋だね」
店長は豪快に笑った。やっとなにも言わずに裏口を通れる。
あ、そうだ。明日はカレーを作る。
夜母さんにカツカレーを食べさせるのもいいかもしれない。
「あの、ここでトンカツ買っていってもいいですか」
「もちろん。ああ、電車賃教えて。それから通帳と印鑑あったら今度持ってきて」
「電車賃は片道百六十円です。往復三百二十円。通帳は……」
持っていない。作らなければ。
「来週の終わりになると思いますが」
「構わないよ」
「ではお先に失礼いたします」
俺は吉村さんの前に立つ。ショーケースの中のトンカツの値段を見る。一枚百九十八円。思うけれど、ゼックは安い。コロッケも三十二円だ。
「あら、どうしたの」
「トンカツ一枚買いたくて」
「かしこまりました」
吉村さんはお辞儀をして、トンカツをフードパックの中に入れ、シールを貼る。レジへ持っていくと、結衣さんが対応してくれた。
「毎度、ありがとうございます」
「いえいえ。もっとお店に貢献できればいいのですが……」
「そんな、無理しなくていいよ」
お礼を言って家に帰る。キャベツもまだあるし、卵もある。明日の朝はキャベツの千切りと目玉焼きだ。ウィンナーも買いたいところだけど、浮かせよう。
今日は家も明るい。鍵を開けると、砂糖と醤油を混ぜ合わせたようないい香りがしていた。煮物の味を思い出す。煮物は砂糖と醤油と、あとなにかを付け足して煮込めばできあがるのだろうと頭で考える。
「ただいま」
「おかえり」
トンカツを冷蔵庫にしまうと、母さんはさっと両手を後ろにやった。
「母さん……」
俺の声が低くなる。
「いや。大丈夫、本当に大丈夫よ」
「両手、見せて」
圧をかけて言うと母さんは素直に両手を目の前に広げた。左手の四本ほど指先を薄く切っている。血が所々滲んでいた。
「あー、また血を流しているじゃん、もう」
俺もじゃがいもで切ったから人のことは言えないけれど。
「大丈夫だって。縫うほどじゃないし、そんなに痛くないし、一晩絆創膏貼っておけば治るから」
この不器用さは天性のものと言ってもいいのかもしれない。それでも鍋の中に入った大根とこんにゃくの煮物はよくできている。料理は苦手だと思い込んでいたけれど、母さんが言ったとおり本当は好きなのだろう。ただ好きと「向いている」は違うのだ。
「どう、おいしそうでしょ」
自信たっぷりに母さんは言う。
「うん、そうだけど、心臓に悪いから母さんはあまり無理して作らなくていいよ」
「ええーっ。ああ、でも昔、火事一歩手前になったことがあるから揚げ物は苦手なのよねえ」
母さんには火傷の痕がある。俺が小一の頃料理中に熱々の鍋をうっかり腕にピッタリと当ててしまったそうだ。どうしたらそうなるのか理解に苦しむけれど、あざは結構大きくて、今でも右腕にはっきりと残っている。長袖を着ていれば問題はないけれど、半袖になると目立つのだ。
俺はいったん部屋に戻ると、鞄をおいてリビングへ下りた。
「食べる前に傷の手当てをしないと」
テレビ台の隣にある棚から救急箱を持ち、母さんを座らせて消毒する。
こういう消毒液も、化学から発展して作られたものなんだよなぁ。
はぁ、と溜息が聞こえて母を見る。
「どうしたの」
「昔料理教室に通っていたんだけど、包丁さばきが絶望的ですねって言われて個人レッスン受けたのよ。若い時ね」
「うん」
「個人レッスン受けても、指先が絶望的にセンスないですねって言われたわ。どうしてこんなに不器用なのかしら」
「・・・・・・仕方がないよ」
確かに、母さんは裁縫も下手だ。針で指を刺してしまう。それでもゼッケンや雑巾を一生懸命縫ってくれたのは覚えている。ゼッケンには血がついていたけれど、母さんだからと受け流していた。流石に裁縫は家庭科の授業で俺も覚えるようになったから、今は最低限のものは俺一人で縫える。
母さんの指は絆創膏だらけになった。
「はい、終わり」
「ありがとう。今回の休みは呼び出しがなくて助かったわ」
母さんはたまに土日に呼び出しが来て会社へ行くのだ。休日手当などでない。
「ほんとだよ。それじゃ、俺が盛り付けるから食べよう」
「そうね」
まあ、母さんが久しぶりに作ってくれた食事だ。有難くいただくか。
働いたあとで、すごくおなかが減っている。
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