第10話

人間誰しも心の中に6歳の自分を飼っている。インナーチャイルドと言ってね。


あの子の場合、5歳だ。


母親が彼を医者にすると決めてしまった、あの日のままで、彼の中のインナーチャイルドは、膝を抱えてうずくまって、止まってしまっている。

 誰かがその背中を優しく叩いて、手を引いて、もう怖くないんだよ、誰も君を傷つけないんだよ、みんなが君を愛しているよ、と導いてやらないといけない。

5歳なんてそんなもんだろ。ちょっと他の子より賢い子だって、一人でおつかいにいくのはなかなか危ういし、親を求めて迷子になって泣いている歳だ。


 彼はそんな歳のときには、親を喜ばせるために、精一杯物分かりの良いふりをして背伸びしなければならなくなった。そこから、ずっと、もう二十年以上だ。

そんなの酷だろ。


 だから僕はなにもできないのに、彼から目を離せない。何年も離れられない。


なにかが、誰かが、彼のインナーチャイルドを癒してやらないと、彼はずっと本質的には苦しいままなんだ。






 私は、思い上がりかもしれないが、このときアオくんの中の5歳の子供に、触れられた気がした。その子を癒して導くことはできないかもしれないけれど、いま、私はその子の背中を優しく叩いてやれている気がした。

その子は気づくだろうか。自分が思っていた以上の愛情を、ちゃんと受けていたということを。

 

 少なくともいま目の前で、彼を愛してやまない男が一人、どうにかして寄り添ってやりたいと心から思っていることを。

私だけじゃない、サイトウも、彼の魅力に取り憑かれてる他の客も、彼の働く店のスタッフたちも、思っている以上にたくさんの人に、彼は大事にされ必要とされているということを。


 まだ28なのだから、人生いくらでもやり直しがきくということを。


 これからも、向日葵のように屈託なく笑う君を、だれよりも人の機微に聡く人の気持ちが分かる君を、周りのことをちゃんと見ていてみんなを明るくする君を、好きになって、愛する人が、きっと沢山出てくるということも。


「大丈夫だよ」


気づいたら、そう口にしていた。

そしたら、一層声を張り上げて泣き出したアオくんの背中を、私は根気強く優しく、けれど確かな強さをもって、撫でてやりながら、大丈夫だよ、と何度でも言ってやった。






どれくらい時間が経ったのか。

日がとっぷりと落ちて、部屋が暗くなったので、全てはつけていなかった部屋の明かりをつけて、すこし肌寒くなったので、暖房もいれた。

夏にアオくんに出会ってから、気づけば季節は巡って、もう冬になろうとしていた。

落ち着いてからも、ぐすぐすと言っていたアオくんの腹がぐーっとなって、二人でふふっと笑って、なんかそこで力が抜けた。


「出前でもとろう。奢るよ。好きなもの頼みな」と言うと、「今日は何も食べてないのでお腹はすいた気がするけど、なんかガッツリ食べれる気はしない」とアオくんは答えたので、消化に優しそうな温かい蕎麦を二人して頼んで、時間をかけてすすった。

 特に会話はなかったけど、向かい合って蕎麦をすすって、目があったら「美味しいね」と言ってにっこり微笑んで、温かい時間だった。


 食べ終わってしまうと沈黙が手持ち無沙汰になって、なんとなくテレビをつけた。二人でぼんやりそれを観ながら、最近流行ってるお笑い芸人や、話題になっているドラマの話をした。遅くなってしまったので、もう今日は泊まって行きなよ、と言ったら、彼は素直に頷いた。私は客用布団をリビングに用意してやると、疲れただろうから眠くなったら寝たらいいと言って、自分は風呂に向かった。あったまって上がってくると、アオくんは、出してやった客用布団の上に座って、まだぼんやりとテレビ番組を観ていた。風呂から上がってきた私に、もう寝る?とアオくんが聞いてきたので、まだ寝ないけど明日も仕事があるので12時には寝るつもりだ、と答えた。じゃあもう少し一緒になんでもいいから話をしてほしい、と言われたので、私は敷いてやった客用布団のそばのソファに座って、構わないよ、と答えた。


 その日彼は、珍しく、自分から、自分の子供時代の話をした。それも、最初に会った日に聞いた、あんなことされて嫌だった、こんなこと言われて傷ついた、みたいな自虐ネタではなくて、子供の頃観ていたアニメだとか、昼休みに流行っていた遊びだとか、竹馬は苦手だったけど鉄棒は得意だったとか、ドッジボールでは逃げ回るより当たっても当てて何回も出入りするタイプだったとか、本当に、たわいもないものだった。男の子なのに昔から虫は苦手だったとか、夏休みの宿題は早めに終わらすタイプだったとか、初恋の相手はやはり男の子だったとか、好き避けするタイプで全然仲良くなれなかったとか。時節、イベントにも会話にもなかなか参加しない父親だったようだが、やはり子供時代の生活に父親の影はどこかにあったらしく、何かを思い出したようにハラハラ泣いたが、それにも構わずアオくんは楽しげに話し続けた。私も興味深げに話を掘り下げた。実際、好きな子の子供時代は興味深かった。


 へえ。それで?アオくんはどうしたの?そうなんだ。私はあれが好きだった。私もそれにハマってた。すごいね、私にそれは出来なかった。


 アオくんは、小学校から帰ってくるなり母親にその日あったことを一生懸命報告する子供のように話したし、私も控えめに自分のことも織り交ぜながら相槌を打った。


 話に夢中になっていたら、時計の針は深夜1時を回っていた。アオくんがやっと気づいて、ごめん、話し過ぎちゃった、と申し訳なさそうに顔を伏せたが、私は、まだいくらでも話したらいいよ、と本心から答えた。もう、申し訳ないから、いい、と答えたアオくんは、おそるおそる、けど、今日はできたら一緒に寝てほしい、と言った。私はまた、構わないよ、と答えて、寝室からブランケットを持ってきて、電気を消して、ソファに横になった。もう寝るかい、と聞いたら、うん、と言ったので、テレビも消して、部屋は真っ暗になった。どちらともなく、手を繋いだ。ものの5分でやはり疲れていたのか穏やかな寝息が聞こえてきたので、私は少し安心して、気づいたら眠っていた。



 

 カーテンを閉め忘れていたので、ベランダの窓から朝陽が差し込んできて、眩しくて目が覚めた。目を覚ますと、アオくんは既に起きていて、客用布団の上に座って、私の手を握ったまま、朝陽が昇ってくるのをじっとながめていた。


 あまり眠れなかったのかい、と聞くと、そんなことない、ぐっすり眠ったよ、とアオくんはいつもよりもすこしあどけなく笑った。昨日出合頭にへんな作り笑いをされて以来の笑顔だった。ならよかった、と言って、そこからは黙って、二人で真っ赤な朝陽が昇ってくるのをながめた。彼も私も、多分少し寝不足だったけど、そこには気怠さは一切なく、むしろなぜか、頭も気持ちも、沢山泣いたからか、とてもすっきりとしていた。


 色素の薄い髪に、美しい朝陽が反射してキラキラと光って、とても綺麗だった。


 私は、このまま彼に、どんな形でもいいから、どうか幸あれ、と心から願った。

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