第9話

「卒業して一年、仕送りが止まらなかったんだ。俺はどこの病院にも就職せず、家からの連絡も一切絶って、勝手に下宿先のアパートを引き払って姿を消したのに」


「….へぇ」


「うちの財布の紐は、母親が握ってた。といってもあの人は自分の物に関してはガバガバだったけど。けど、仕送りは、母が入金してたんじゃなくて、うちの診療所からの役員報酬だった」


 節税対策というやつで、20歳を超えたら役員になれるんだ。それで、給料も学生の独り暮らしには十分なくらいは出せる。多分父の裁量で、一年は自由にさせてくれたんだ。父なりの、息子への温情だったんだと思う。曽祖父からの医者家系だから、多少ツテを辿って探せば、どこの病院の研修医名簿にも名前が載ってないことはすぐ分かったんだと思う。

それでも一年仕送りは止められなかった。

好きにさせてくれたんだ。 

こんなに出来の悪い、勝手な息子だったのに。その証拠に、きっかり一年で仕送りが止まって、その2ヶ月後に、いまも住んでる東京のはずれのボロアパートに、父が一人で訪ねてきた。すぐにでも探偵を雇って飛び込んできそうな母親を一年も宥めて、流石に一年たってもどこでなにをしているか音沙汰もなかったから心配になって、興信所かなんかを使って調べたみたいだった。顔を見るなりヒートアップしそうな母親は家において、父一人で来てくれたことに、とても感謝した。父は、怒りも罵りもしなかった。突然訪ねてきて、「元気にしていたか」と静かに言った。


私は、またポロポロと涙をこぼしながら語り出した彼の話に、静かに耳を傾けた。


 父は多くを問い詰めたりしなかった。もともとお喋りな人ではなかったけど、それでも高い学費を出して私立の医大に独り暮らしまでさせて通わせてくれて、なのに留年もしてやっと卒業した息子が、医者にもならずに家に音沙汰もなく、東京のポロアパートで平日の昼間に家にいるような生活をしていたら、どんな親だって聞きたいことは沢山あったろうに。


「金には困っていないか」

「仕事はなにかしているのか」

「ちゃんと食べているのか」

「ちゃんと寝てるのか」

「三年生のとき、一度帰ってきたが、あのときは体調が悪そうに見えた。いまは大丈夫なのか」


 気づいてたんだ。俺が多分、メンタルの病気だってことも。当時は何て言っていいか分からなかったのかもしれない。留年が決まったばかりでヒリヒリしている母親の前で何を言っても俺に悪いようにしかならないと思って黙っていてくれたのかもしれない。ただ親父は、当時から心配してくれていたことだけは、よく分かったんだ。家にいなかったし、休日にどこか遊びに出かけたなんて思い出も、運動会に来てくれたことだって参観日に来てくれたことだって一度もなかったけど、父は父なりに、俺を愛してくれていたって、あのとき知ったんだ。


父は、手土産に持ってきた菓子折りを置いて、1時間半くらい話して帰っていった。息子の好きなものなんて何も知らないんだ。それで、会社員が取引先に持ってくような菓子折りを持って会いに来た。去り際に、「いつでも帰ってきなさい」「金に困ったら、母さんは通さなくていいから、父さんにこっそり言いなさい」とだけ言って、一言も責めずに帰っていった。


「店では、両親を人でなしみたいにこき下ろして、酒の席のネタにしてるけど、親父はそうでもなかったんだ。なんで母さんから守ってくれなかったの、とか、気付いてたならもっと早くに助けてよ、とか、色々言いたいこともなくはないけど、不器用なあの人なりの愛情は、確かにそこにあった」


アオくんは、ひたすらポロポロ泣いていた。私も思わず、涙腺が緩んだ。


「…アオくんのお父さんは、たしかにアオくんを愛していたと思うよ」


 言葉にしてそう言ってやると、アオくんは、またわっと声を上げて激しく泣き出して、私は席を立ち上がってアオくんのそばまでいって、落ち着くまでずっと背中を撫でてやった。


思い出なんてなかったって言ったけど、本当は、朝半分寝ぼけながらパンを齧って、新聞を読んでる父さんの姿は覚えてるんだ。夜、稼いでるくせに百均の老眼鏡をかけて遅くまで単行本をベッドで読んでる姿も。受験勉強中行き詰まって夜中一人で部屋で参考書やらノートやらを壁に投げつけてた時は、「大丈夫か」って、それだけだけど様子を見にきてくれたこともあった。


彼は、いままでの分、全て吐き出すように、覚えている父の姿をひとつひとつ語りながら、たくさん泣いた。声を上げて、泣いた。私も黙って聴きながら、一緒に泣いた。

正しい死者の悼み方だと思った。葬式には、最後までいられなかったのかもしれないけれど、きっとあの場にいるだれよりも、亡くなった彼のお父さんに純粋な深い愛情を向けられ、それをきちんと理解して受け取っていたのは、アオくんだった。


「…ごめん。出来の悪い息子でごめん…」

「アオくんは、頑張って生きてきたよ」

「…親孝行も何も出来なくてごめん。心配ばかりかけて、何もしてあげられなくて…」

「仲直りには時間が足りなかっただけだよ」

「…もう、先は長くないかもしれないって、知ってたのに、会いにも行かなくて…」

「お父さんは、君の事情も立場も、ちゃんと理解してたと思うよ。責めちゃいないさ」


 いまはもう亡き父親に捧げる懺悔を、私は一つずつ代わりに赦していった。アオくんは、薄情な子でも悪い子でもなかったし、自分なりに精一杯に生きていた。それはまだ数ヶ月そこらの付き合いの私でもわかった。話を聞く限り、きっとアオくんのお父さんも、不器用ながら優しい人だった。それこそ、ただ、 



なにかが掛け違ってしまっただけ。



サイトウが、いつかアオくんを遠く見つめながら、言っていた話を思い出した。

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