第8話
その日はたまたま、早い時間に外回り先から直帰した。昼はとうに過ぎているが、夕方にはまだ早い、そんな時間帯で、彼を見かけたのは本当にたまたまだった。何度も店に通ううちに彼がどの辺に住んでいるのかは聞いていたので、彼が複数の線の乗り換えポイントになっているこの大きな駅を通りがかったのもその日たまたまだろう。夜職の子に、プライベートの時間に声をかけるのは野暮かと思ったが、高鳴る心に抗い切れず、声を掛けてしまった。
沢山の行き交う人混みの中から彼を見つけて、思わず声を掛けてしまったので、彼が振り返ったその時まで彼が喪服を着ていることに気付かなかった。
「ああ、シュンさん。お仕事中?」
彼は瞬時に仕事モードに切り替えたのか、それでも普段よりは少し力なく、ふわりと笑った。時給の発生しない時間に、彼にそんな顔をさせてしまったのが、途端に申し訳なくなった。
「あ、いや、今日はもう直帰なんだ。たまたま見掛けて嬉しくなってしまって。思わず声を掛けてしまって、申し訳ない」
ストーカーと思われたかな、気持ち悪かったかな、それより喪服ってだれか身近な人に不幸でもあったんだろうか、そんな時に余計申し訳なかったな、といろんな考えが頭を巡って、口から出た言葉はそんな情けないものだった。
「いーよ。俺は、葬式の帰り」
彼は少しバツが悪そうに、見れば分かることを言った。
「どなたか、亡くなったの?」
「親父。ごめんなんも気にしないで。しんみりもそんなしてないんだ。何年も会ってなかったし、半年くらい前から身体悪くしてるって聞いてたのに見舞いにも行かなかったのは俺だし。ずっと仕事人間で小さい頃から家にもほとんど居なくて、これといった思い出もないんだよね」
「….すまなかったね、そんなときに。お悔やみを」
「ありがとう。つっても俺は一瞬顔見ただけですぐ帰ってきた。長男だしもっとやることあんだろ、って自分でも思うけど、それ以上に居場所なくてさ」
「事情は人それぞれだよ」
母親や、ご立派なご親戚の方々からまた何か言われてきたのだろうかと思ったが、彼から話さない限りはなにも聞かないことにした。
_______この子は、これから家に帰って、また立派な息子で居られなかったことを懺悔して苦しむのだろうか。もう戻らない人生のどこかのターニングポイントを、あのときああすればよかった、こうすればよかった、なんて後悔してみるのだろうか。最期に息子らしいこともせずに会わずじまいだった自分を責めたりするのだろうか。そう思うと、なんとなくこのまま一人帰すのが、苦しかった。
「….こんなときに下心なんてないんだけど、もしよかったら、うち、寄ってかない?」
色々考えてなんとか出した言葉がこれだった。喪服ではどこかの店にも入りづらいだろう。
「….いや、」
「帰って一人でまたどうしたって自分を責める君を、いまは一人にしたくないんだ」
困った顔をして断ろうとした彼を瞬時に遮った。親父の葬式のあとに自分に好意を寄せてる男から初めて家に誘われたら、普通断るだろう。誘う方だって非常識だ。さっさと帰って喪服を脱いでクリーニングにでも出して、故人を静かに悼むのが正しい。けど、彼がこれからするのは、追悼ではなくて自傷だ。
「シュンさんは……俺のなんなん?」
彼はわざと少し私を傷つけるような言い方をして、彼の方が傷ついた顔をした。
「なんでもない。わかってるよ私は君のなんでもないんだ。けど…..頼むよ….」
最後は縋るような小さな声だった。だって彼が泣いていたから。音もなく静かに泣いて、すぴ、と鼻を鳴らした。私は彼に一歩近づいて、優しく彼を世間から覆い隠すように抱きしめた。自分の長身と恵まれた体格にこのときばかりは感謝した。彼をしっかりと抱きしめることができたから。腕の中の彼に「一緒に帰ろう?」と優しく呼びかけると、彼はポロポロと涙を流しながら黙って小さく頷いた。
彼はああは言ったけれど、やはり18までは同じ家で生活した、実の父親が亡くなったとなれば、それなりに心にダメージを受けていたのだろう、彼が泣いていたので電車で数駅のところをタクシーを拾って帰ったのだが、彼はその間もずっと静かに泣いていた。私はなにもできなくて、なにも言わずに、彼の手をできるだけ慈愛を込めて握っていた。振り解かれたらそれでいいと思っていたが、家に着くまで振り解かれなかった。そんな気力も余裕もなかったのかもしれない。家に上げて「喪服は脱ぐかい?」と聞いたら、彼は泣いたまま黙って頷いた。「着替えを出すね。なんならシャワー浴びる?お香のにおいとか気になるなら」と言ったら彼はまた黙って素直に頷いた。
私は「そうだね、そうしよう」と言って、タオルと新品の下着と私の部屋着を渡すと、バスルームに送り出した。シャワーの流れる音を聞きながら、私はキッチンでミルクを温めた。蜂蜜を入れて飲むと心が落ち着く。昔実家の母がよくやってくれたのを思い出した。シャワーの音がしばらく続くと、彼の啜り泣く声が強くなった気がした。一人になって少し安心でもしたのだろうか。葬式会場でも、帰りの電車でも、泣くことなんて出来なかっただろう。私に出会ってしまって、気遣われて、我慢ならなくなったのか、それなら少し悪いことしてしまったな、とも思った。
たっぷり時間をかけてシャワーから上がった彼は、目は腫らしていたが、なんとか泣き止んでいた。髪を乾かさずに出てきたので、おいで、と声をかけて洗面台に連れて行き、ドライヤーをかけてやった。彼は無言でされるがままになっていた。それから先程温めたホットミルクを出してやった。彼は「ありがとう」と鼻声で小さく言って、マグカップを受け取った。二人で、しばらく無言でホットミルクを飲んだ。舌に残るこのほのかな甘さが、少しでも彼の心の哀しみを和らげてくれればと祈った。
生きてきて33年、誰かを心から慰めてやりたいとか寄り添ってやりたいとか思ったことはなかった。そういう場面にも機会にも出くわさなかった。自分の母ならどうしてくれていただろうかと、幼い頃の記憶を遡るしかなかった。アオくんの家のように、別に大した家でも特別に裕福な家でもなかったが、お腹いっぱい食べさせてもらいのびのびと育った。ごく普通のサラリーマンの家で、母は優しかったし、父は家族想いだった、ように思う。両親は健在だが、長らく実家には帰っていない。元気にしているだろうか。たまには電話でも入れてみようか、なんて考えた。アオくんは、泣き疲れて、ちまちまとホットミルクをなめながら、ぼんやりとしていた。頃合いをみて、布団を敷いてやって、寝かせてあげてもいいかもしれない。泣くと疲れるし、今日は本人さえ良ければ泊まっていってくれてもいい。
「…卒業して一年」
アオくんが、おもむろに小さな声で呟いた。
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