第7話
「あの人、また来てるよー」
出勤するなり、同僚に言われて、少し気分が重くなった。ありがとう、いくよ、と返事をして、少し衣装を整える。
シュンさんは、あの日「店にもちゃんと通う」と宣言した通り、毎週末通ってきては、ドリンクバックに貢献してくれた。お高めのボトルだって入れてくれた。
最初に来店した時は、「男なんて興味ない」といった雰囲気がありありと伝わってきていたのに、一度寝ただけで、来店2回目からは「可愛いよ」「綺麗だね」「好きだな」と歯の浮くようなセリフを蕩けそうな目で伝えてくる。
完全にこちら側に落ちたな、と思っていた。
3回目以降はちょっとしたプレゼントを持参するようになり、5回目には少し緊張した面持ちで告白された。
年に数回製造してしまう、『ガチ恋勢』の一人だった。ままある。俺にその気があれば、そんな不名誉な呼び方なんてされずに、彼氏候補の1人にでもなるのだろうが、生憎俺はろくな恋愛が出来てこなかったせいで誰かと恋愛関係になってお付き合いすることに慎重すぎる節がある。一年以上別の女の子と二股した挙句女の子と結婚した前の彼氏、許すまじ。もはやトラウマなのだ。
『ガチ恋』は、燃え上がる一時は金のなる木だし、こちらもあの手この手を考えなくても勝手に店に通って金を落としてくれるので、こういった夜の店には一定数必要な存在だ。
しかし俺は、相手の本気度が見えれば見えるほど、「金さえ落としてくれれば」なんてそこまで冷たくもなれないので、良心が少なからず痛んで苦手だった。サイトウさんは、非常に数少ない、『ガチ恋』だったのに切れなかった客の一人だ。大抵の『ガチ恋』客は、一時に集中して通い、そのときはじゃんじゃか金を落とすが、相手にされなければ諦めて切れてしまう。大人しくフェードアウトしてくれるなら有難いが、ストーカーみたいになって警察に厳重注意してもらった客も、「こんなに愛しているのに」と逆ギレして店を出禁になった客もいた。
シュンさんの告白はもちろんきちんと断った。
どこの店の子も持っているような、辛い失恋エピソードや過去の酷い男の話をして、「いまは、出会って少ししか経ってない人と、真剣に踏み込んでお付き合いするのはまだ怖いんだ」と困ったように笑ってしまえば簡単に引いてくれた。一流企業勤めの独身貴族とだけあって、金はそれなりに溜め込んでいるようだし、意中の相手の扱いも手慣れていて、こちらが見ていてげんなりするようなダサいこともしないし、周りに迷惑をかけることもしない。
ただひたすらにスマートで優しく、金も落とすし、良い客だった。サイトウさんは、自分も元々そちら側だったからか、シュンさんが『ガチ恋』に落ちたことをいち早く見抜き、「なにか困ったことがあったら早めに言いなよ」と、振られてもなお必死に俺を口説くシュンさんを横目に困ったように笑っていた。
「俺も夜の仕事長いから、慣れてるよ。ありがとう」と彼の気遣いの言葉には素直に感謝を言った。
そうこうしているうちに、親父が死んだ。
俺は7年ぶりに実家に顔を出した。
母親は、久しぶりに顔を見せた息子に、「元気にしてた?」だなんて聞かなかった。「お父さんは……最後まで立派にお医者として死んだけど…..アンタはいまどこで何してるの」とよくわからない責め方をした。そういえばこの人はこういう人だったと改めて思った。
最後に実家に戻ってきたのは21歳の秋。俺は留年が決まってすぐで、そんなときに小さい頃から一緒に育った犬が死んだと連絡がきて、バイトも何もかも投げ出して実家に飛んで帰った。靴も荷物も玄関で放り出して、冷たくなった愛犬を抱きしめながら大粒の涙を流して泣いていたら、母親は、「アンタはなんで留年したの。部活だなんだって遊んでばかりいるからじゃないの」と説教を始めた。流石に絶句した。意味が分からなかった。この人には、俺の腕の中で、かつては兄弟のように育って、いまは冷たくなっている、この人懐こかった家族が見えていないのか。それを抱きしめて慟哭している息子が見えていないのかと思った。
「アンタのせいで摂食障害になって学校なんてままならないんだよ」とか、言い返す気にもならなかった。ペット向けの葬儀屋で愛犬が火葬されて天に還っていくまで、俺は一言も母親に言い返さなかったし、ただひたすら泣いて、もう動かない愛犬を抱きしめていた。最期の時間くらいアイツとの思い出だけをたくさん思い返して、その死を心から悼んで、一緒に過ごしたかった。小さくなった愛犬を骨壷につめ、仏壇に入れ、手を合わせたら、「じゃあ、帰るわ」とだけ言って、その日のうちに大学に戻った。
一周回って少しおかしかった。母親は、自分の夫が死んでも尚、出来の悪い息子の体裁が一番気に入らなかったようだ。この人は父親の資産で一生贅沢に暮らしてもなにも困らず生きていけるだろう。俺が老後のことや年金のことを気にしてやる必要はない。今度この家に戻るのは、このかわいそうな母親が死んだ時だ。俺は、知らぬうちに老けて一回り小さくなった父親に、通夜で手だけ合わせてすぐ東京に帰った。母親は俺なんか居ても恥ずかしいだけだろうし、それで親戚連中になんと言われようが、もうどうでもいいと思った。
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