第42話名手サイモンと直人①
その中年の男性のバッハは、決して腕をひけらかすような、軽いバッハではない。
少し重めのテンポ、音は柔らかめ、感情的な演奏でもない。
理知的と言えば、そうなる。
直人は、聴いていて、背筋が伸びる思い。
ただ、いろんなことを(今までの人生を含めて)考ええさせる演奏だ。
周囲の客が目に入る。
(残念ながら、音を立てて食事をする人もいる)
(大声で笑う、かん高い声を上げる中年女性もいる)
こんな環境で弾く彼に、同情を覚えた。
どんな芸術でも、何とも思わない人もいる。
どこでも、どんな世界でも、自分の事しか考えない人がいる。
(自分さえ楽しければ、他の人の気持ちなど、どうでもいい、そういう人はなくならない)
(あるいは自分の主張のために、立場の保存と向上のために、他人の犠牲など、無視あるいは、喜びとする者も、歴史においては、数多く存在する)
(人類の歴史は、全て、そういうものの、連続なのかもしれない)
(倫理的な善悪ではなく、勝者が善であり、敗者が悪の歴史を、押し通して来たのが人類なのだと思った)
直人は、事件に遭う前に聴いた、太平洋戦争の授業を思い出した。
講師は言った。
「日本は、米軍に、原爆を含む、あれほどの大空襲を受け、無差別に非戦闘員の女性、老人、子供を大量に無慈悲に殺されながら、いざ占領を受ければ手のひらを返して、米軍に尻尾を振った」
「確かに、日本軍の蛮行もあったかもしれない」
「しかし米軍の無差別大量殺戮は、一切戦争犯罪になっていない」
「厭戦気分もあったかもしれないが、日本人の、その腰の軽さは、戦争を煽ったマスコミを含めて、実に恥ずかしく情けない限りだ」
「手のひらかえし」から、直人は里奈を思った。
手のひらを返すように、あっさりと、直人から裕福な良樹に乗り換えた里奈。
その里奈は、また他の男になびき、怒った良樹に校舎の屋上で殺された。
良樹は、そのまま屋上から飛び降り自殺をした。
「俺は、どう考えればいい?」
「こんな・・・人違いで襲われ、病院からホテルに転々と」
「帰るにも帰れないではないか」
太平洋戦争と自分の状況は、全くレベルが違う話。
何故、そんな風に思考が飛んだのかも、自分でも、よくわからない。
他人から無慈悲な攻撃を受けた、それが共通なのか。
あるいは「手のひらかえし」の「無節操さ」が共通なのか。
そんなことを思っていたら、バッハの演奏が終わった。
中年の演奏者は、地味にお辞儀、拍手を受けて、カウンターに向かって歩いて来て、直人の隣に座った。
直人は、拍手をして迎えた。
「素晴らしい平均律でした、ありがとうございます」
中年の演奏者は、直人にやわらかな笑み。
「ありがとう、サイモンと言います」
つけ加えた。
「ユダヤ人です」
直人は、少し身構えた。
「井上直人と申します」(緊張してフルネームまで言ってしまった)
サイモンは、やさしい顔で自嘲した。
「地味な曲なので、あまり聞いてもらえたかどうか」
直人は、それには応じず、演奏を、また褒めた。
「好きなバッハの弾き方でした、ありがとうございます」
サイモンは、やわらかな笑み。
「直人君も、音楽が好きなの?」
直人も、やわらかに、そして謙虚に応じた。
「腕はアマチュアレベルですが、聴くのは好きです」
サイモンが聴いて来た。
「ピアノは弾くのかな?」
直人は素直に答えた。
「子供の頃から、習いました」
「でも、学業優先でしたので、本格的ではないです」
サイモンは、ポンと直人の肩を叩いた。
「一度セッションをしようよ」
「ピアノ以外に何か?」
直人は、サイモンに押された。
「ギター・・・あ・・・アマチュアです、あくまでも趣味で下手です」
(直人は、アマチュア、低レベル奏者を強調、決して弾く意思を見せまいと思っている)
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