第59話 さよなら、異世界

 チハ姉と別れて、第一営業所1階の、自分の部屋…というよりもともと面会室だった部屋を無理に寝室として使っている状況の所に戻ってくる。ここには、面会者が使うパイプ椅子と、部屋の中央に鎮座するパーテーション付きのカウンターのほか、別の部屋から運ばれた資料入りの段ボール箱や、防災用品と思われる古ぼけた鍋など、物置のように様々なものが置かれているため、帰ってきたところであまりくつろげない。それでも、いざ離れるとなると(とはいってもあと4日はここで寝泊まりするのだが)やはり少しは情が移るというか、名残惜しいような、切ないような、複雑な気持ちになる。午後は、ウィルさんが好きなブラックコーヒーでも淹れて、のんびりするか。

 そう思って給湯室へ向かうと、流しの横に置かれた電気ポットには、マーカーの赤い字で「故障中」の張り紙が貼られていて、がっかりする。そういえば、昨日か一昨日ぐらいから、蓋が閉まらなかったり、スイッチを押してもなかなか反応しなかったりと、調子が悪かったっけ。仕方ないので、温かい飲み物は諦めて、冷蔵庫の中にある、ペットボトルのお茶を飲むことにした。本社だったら保温機能(たぶん正確な言い方ではない)のついた自動販売機があるので、お茶にしろ、コーヒーにしろ、温かいものを飲めるのだが、わざわざそのためだけに出向くのも馬鹿馬鹿しかったので、すんなりと諦める。

 

 異世界での最後の数日間はあっという間に過ぎていった。残り3日の時は朝からチハ姉が第一営業所の私の部屋まで押しかけてきて、本社の自販機コーナーで買ってきたとみられるジュース類と、どこから買ってきたか分からないスナック菓子数種を差し入れてくれた。「どこから買ってきたのかわからない」としたのは、この辺りにはコンビニやスーパー、駄菓子屋などスナック菓子を買える店が一軒も見当たらなかったためである。幼い頃から親しんでいたジャンクな味にまた出会うことができて私は感激していた。ついつい調子に乗って食べ過ぎてしまったので、せっかく快方に向かっていたニキビがまた悪化するかもしれなかった。

 残り2日目の午後にはリンドウさんを中心とする自警団の面々が来てくれた。引っ越しを手伝うために顔を出したということだったが、私はほとんど身一つでこの世界に来ているので、大々的な片付けや荷造りの必要はなく、彼らは一旦引き上げることになった。その代わりにといって夜に飲み会が開かれる。会場はかつてヤエちゃんが勤めていた(というか不当に搾取されていた)問題の居酒屋。未成年の私はもちろんアルコールなど頼まず、前回同様ウーロン茶しか飲んでいないということも念のため言い添えておく。ウィルさんはみっともなくべろんべろんに酔っぱらって、泣いたかと思えばしょうもないダジャレを言って自分で大笑いしては、お目付け役として駆け付けたアケボノさんから冷たいまなざしを向けられていた。朔子さんは仕事の延長線での集まりなので、お酒は飲まず、ウーロン茶で静かに過ごしていた。心持ちいつもより元気がないように見え、料理にもあまり手を付けていなかった。朔子さんと一緒に来たナオ君もあまり食欲はなく、ずっとうつむいたまま黙っていたが、帰り際には笑顔を見せ、療養所の売店で買ったという箱入りのチョコボールをくれた。

 出発の前日となる、第一営業所での最後の日は、あいにく冷たい雨の日で、外には出づらいお天気だった。荷造りは来るときに持っていたスクールバッグに財布とスマホ、充電器をしまうだけだったので、当日の朝でも十分間に合う。だから、帰るときに着る服…中学制服のワイシャツにアイロンをかけ終わった後はもう何もすることがなく、休憩室のラジオを聞いてだらだらしたり(なぜかテレビは置いていなかった)、おやつの時間にパンケーキを焼いたりして、のんびり過ごした。夕方には業者の人が来て、古い電気ポットと引き換えに、新しいものを置いて行った。2、3日ぶりに自分で淹れた熱々のコーヒーを飲んでいると、私は、明日も、明後日も、ずーっと先も、ここにいるんだろうなという気がしてしまう。明日にはもう帰らなくてはいけないというのに、まるで実感が湧かなかったし、湧かせたくもなかった。

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