第58話 交代要員(3)

 確かに、チハ姉だ。私のことを知っているし、リボンを緩め、スカートの丈をうんと短くして着崩した高校の制服も記憶の通りだった。だけどどうして、彼女がここにいるのだろう。戸惑っていると、チハ姉に突然強く抱きしめられる。


「よかった、本当に心配したんだよ。LINEしても既読がつかないし、電話もつながらないし、マユとミサキに訊いても、恵理なら最近学校に来てないし、駅前のファミレスやいつものゲーセンでも見かけないっていうから…。新宿とか、渋谷のあたりで変なのに連れて行かれたとかじゃなくて、本当によかった」


 そう言って、私を抱きしめたまま、ボロボロと涙をこぼすチハ姉。この間の…とはいっても、何だかんだで1年位は経っているのだが、私の将来の夢うんぬんで揉めたときの、あのカラオケでの気まずさ、とげとげしさが嘘のようだった。だけどやっぱり化粧臭いし、煙草臭い。1分ほどして彼女の豊満な胸元から顔を離すと、左目をぐるりと囲む青あざが視界に入り、ぎょっとする。よく見ると、両の腕にも、それぞれ数か所ずつ、小さな切り傷や紫色のあざが点在していた。私の視線に気がついたチハ姉が苦笑いして言う。


「ああ、これ、けっこうひどいっしょ。母親とバトって、家出したのは良かったんだけど、そのあと彼氏とケンカしちゃってさ。気づいたら、このざまだよ。ハハハ」


 チハ姉自身は何でもないことのように笑っていたが、私は一緒になって笑う気にはなれなかった。かと言って、そんな男とは別れちゃいなよと、巷に溢れているようなありきたりなアドバイスをするのも、無責任な気がして、気が引けた。唯一の肉親である母親と折り合いが悪く、学校にもほとんど通っていないチハ姉にとって、彼氏の家は、雨風防げる、数少ない、比較的安全な居場所だった。そこから逃げ出したところで、何人かの友人たちと、危険な夜の繁華街まで繰り出して、ネットカフェやカラオケ、ファミリーレストラン、コンビニ、ゲームセンターなどをはしごするか、行くあてもなく路上にたむろするしかないのだ。だから、なぜ彼女が、異世界で人手が足りなくなっているので、助っ人として働きに来てくださいという、突拍子もない依頼を、私同様、あっさり引き受けたのかが分かったような気がした。まあ、実際に「あっさり」だったのかどうかは、スカウトの現場を見たわけではないので、わからないけど。もしかしたら多少はためらったのかもしれないし、チハ姉のことだから、下手すると呼びに来た人とケンカになりかけていたかもしれない。


「じゃあ、あたしは昼からまたケンシューだから、もう帰るね。何かあったら、えっと、あそこは本社ビルだっけ、何か色々飲み屋とかある界隈の寮にいるから、遠慮なく遊びに来ていいよ。バイバイ」


 こうして、記憶の中の普段通り、チハ姉は言いたいことだけ言うと、駆け足で慌ただしく去っていった。そのどこか頼りなく、不安定な後ろ姿を見ていると、そういえば、私が今日で仕事が終わりなのは伝えたっけ、あと4日で私が元の世界に戻ることは知っているのだろうか、吸血鬼がうろうろしているのは? などと伝えたいこと・確認しておきたいことが次々と浮かんできたが、頭が整理されたころには、すでに彼女の姿は見えず、後の祭りだった。私はこの世界での彼女の連絡先を知らないのだ。彼女が住んでいるという、本社の近くの寮も、存在自体は他のスタッフの話で聞いたことがあるが、正確な場所まではわからないし、そこの電話番号だってさっぱり見当がつかない。おまけに、元の世界での、スマホのテキストメッセージや電話機能は、サービス適応地域を外れて使えなくなっている。そうなるともう、どうしようもなかった。

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