第55話 挨拶まわり(2)
よく考えてみれば、ナオ君にとって私はただの「知り合いのお姉さん」というほど軽い存在ではなかったのかもしれない。まず、唯一の肉親である姉と母は不治の病にかかり、いつ亡くなってもおかしくない状況である。この日の午前中にお見舞いに行った時も、ヤエちゃんは意識が戻らないままで、さらに重症だったお母さんは「面会謝絶」の状態になっていた。そして、心のよりどころになるはずだった学校の友達や顔見知りの大人たちは、吸血鬼病の脅威から逃れるため、次々と北の街へと避難して彼のそばにはいなくなっている。こんな中で近くにいる私までが突然「元の世界に帰る」などと言い出したら、見捨てられたように感じても何の不思議もないだろう。
私の退職が決まった時、電話がかかってきてその場に居合わせなかった黒砂さんにも、この日の午後、別れの挨拶をすることになった。あのとき緊急の用事で呼び出された彼はそのまま担当地区外の「隔離」の仕事に駆り出され、第一営業所を留守にしていた。今日の夕方帰ってきて、次の日には荷物をまとめてすぐ次の現場へ出発し、私が帰る日も他所での仕事があって、営業所には戻ってこれないらしい。帰還の日まであと4日(今日を入れると5日)あるが、黒砂さんとは今日で最後になる。こんなに早くお別れが来るなら、もっと普段から色々お話しして、もっと仲良くなっておけばよかったなと思うが、後の祭りだ。一介の同僚らしく、節度を守って淡々と、仕事を辞めて4日後に帰ることになったことと、半年ほどお世話になった感謝の気持ちを伝えることにした。
事務室の扉をトントンと2回ノックする。自分がこの場で黒砂さんに言うべきことは何度も練習して、もうはっきりと決めてあったが、それでも実際に話す段になると、わけもなく緊張する。
「失礼します」
中に向かって声をかけると、きれいに整頓されたデスクの前で、珍しくパソコンに向かって何やら事務作業をしていた黒砂さんが、のんびりとこちらを振り向く。服装もいつもの紺のつなぎではなく、グレーのスーツにワイシャツ、青のネクタイという普段とは違うきちっとした格好だった。
「今、少しお話ししてもよろしいでしょうか」
「いいよ。書くものも、ちょうど終わったところなんだ」
黒いつややかな2つの瞳が、一度に私の顔を見る。どうしよう。目が合うと、やっぱり胸が苦しくて、何も言えなくなりそうになる。しっかりしろ、この馬鹿、変態。思春期だからって、こんなときまでドギマギしててどうする。
「急な話で申し訳ないのですが、私、会社を辞めることになりました。4日後には、向こうに帰ります。短い間でしたが、お世話になりました」
たったこれだけのことを言うのに、随分と長い時間がかかってしまった気がする。そもそも、緊張するあまり、自分が何を言ったかほとんど覚えていなくて、言おうと思っていたことを上手く喋れたか自信がない。話した後も動揺が収まらず、真っ赤になっている私に、黒砂さんは優しく笑いかけ、足元にある自分のリュックサックから、きれいに焼けた袋入りのクッキーを取り出し、そっと手渡してくれた。1番上の娘さんの手作りだという。
「さみしくなるけど、向こうに行っても、元気でね」
「ありがとう、ございます」
私はそれだけ言って頭を下げると、すぐに背を向けて事務室を出た。別に、相手が私の時だけに限らず、誰にでも優しい職場の先輩が、最後もその人らしく親切にしてくれたからってどうってことはないと思ったが、少しでも余計なことを喋ったり、1分でも長居したりしたら、泣き出してしまいそうだった。
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