第43話 バス・チェイス(3)
車内からどっと歓声が上がる。吸血鬼が落ちた海面には派手に水柱が立ち、ハリウッド映画のワンシーンみたいでかっこよかったので、私もつられて拍手しそうになったが、目の前で海に突き落とされたのは人間、しかも病人だったということを思い出してやめた。もし岩場に当たって頭を打っていれば即死だし、落ちたのがたとえ岩のない深い水の中だったとしても、泳ぎが苦手だったり、間違って潮の流れの速いところに入り込んでしまえば、着水直後にすぐ絶命ということはなくても、いずれは溺れて亡くなってしまう。拍手なんて、していいはずがない。
アケボノさんは、やはり淡々としていて、涼しい顔だった。マイクを貸すよう私に促すと、特に何事もなかったように、次のようなアナウンスを始める。
「トラブルの発生により、予定より少し遅くなってしまいましたが、このバスは、これより海沿いのドライブコースを経由して、解散場所の駅前ロータリーへと向かいます。引き続き、車窓の美しい風景をお楽しみくださいませ」
さすがは百戦錬磨の社会人だと思った。私や、同年代のガキんちょたちにはとても真似できない、臨機応変で、気配りに満ちた、冷静な対応。それでも、毎日仕事を頑張っていれば、私もいつか、アケボノさんのような優秀な、できる大人になれるのだろうか。だけど一方で、そう簡単に心が淡白な「やり手」になっていいのだろうかとも思う。大人になっても、今のままの、傷つきやすく、潔癖な心を保っていたい気もするのだ。
バスは予定より15分ほど遅れて、駅前のバスターミナルに到着した。時刻は17時半過ぎ、普段なら家に帰る人たちでにぎわっている時間だったが、駅にも路線バスの待合所にも、人の姿は見当たらなかった。その代わり、バスロータリーや駅の壁のいたるところに赤い液体や茶色い液体がぶちまけられ、タクシー乗り場にはタクシーがドアの片方外れた状態で放置され、バス乗り場のベンチは横転していた。ロータリーの中州のあたりに止めてあるバスの窓ガラスも何箇所か割れていて、周りには乗客のものと思われる荷物や靴が、赤褐色の液体にまみれた状態で散乱していた。運転手のものとみられる車掌帽も落ちている。どうやら、事態は私たちの知らないところで大きく悪化していたようだった。ここにも、吸血鬼病の影響は広がっている。
「お客様には第一営業所で、降りてもらいましょう」
アケボノさんが、彼には珍しい、緊張した、深刻な面持ちで言う。本社や他の各営業所からはまだ何の連絡も来ていなかった。知らせがないのは良い便りで、第一営業所では何も起こっていなければいいのだが…。ウィルさんたちが無事である保証も、私たちがお客さんたちを安全な場所で降ろせる保証も、まだなかった。
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