第37話 銭湯の親子(5)
こんなとき、チハ姉がいてくれたらと思う。背が高くて、気が強くて、ギャルを通り越して不良で、スケバンと恐れられ、毎晩バイクを乗り回していたチハ姉。私が新宿でガラの悪い集団に絡まれた時も、バッティングセンターで使うために持っていた自前の金属バットと、得意の空手とで、あっさり追い払ってくれた。親しく付き合っていた時はあれほど嫌だった煙草の臭いも、甘ったるい化粧の匂いも、今はただ懐かしい。
しばらくして、元気を取り戻した声とともに、朔子さんが戻ってくる。
「島村さん、リンドウさんたちが来てくれましたよ」
彼女とともに入ってきたのは、ガタイのいい自警団の面々だった。女風呂の浴室に何も気にしない様子でずかずかと上がり込んできたのには驚いたが、この差し迫った状況を考えれば、まあ、それも仕方ないだろう。
「よし、確保だ、確保」
6人いる自警団のうち2人がヤエちゃんを床に押さえつけると、リンドウさんが、その露わになった無防備な首筋に大きな注射器を刺し、何かを注入する。
「麻酔だ。効き始めたらすぐ車に担ぎ込め。医者は俺が手配する」
リンドウさんの仲間たちにてきぱきと指示出しをする様子を見て、この前とは全然雰囲気が違うなと思う。突然果物屋に現れた吸血鬼らしき女の子(それも目の前にいる同じヤエちゃんなのだが)にパニックを起こし、やたらめったらに殴りつけ蹴りつけていたあの暴漢だとは思えない。必要な武器や道具を手元にきちんと用意さえできていれば、頼りになる人だったのだなぁ、とありがたく思う一方で、床に押さえつけられ、涙に潤んだうつろな目でぐったりとしているヤエちゃんを見ると胸が痛んだ。私は結局、この子を守るために何もできなかった。
女性の方もそれまでヤエちゃんに対して激しく抵抗していたのが嘘のように、脱いだ衣類を置く棚に力なく寄りかかり、床に足を伸ばして座ったまま、目をつむっている。リンドウさんによれば、噛みつかれた精神的ショックと、多量出血による体調不良で意識を失ったのだろうということだった。自警団の1人が傷口をタオルで覆った上から体重をかけて圧迫し、出血を止めようとしている。
「止血が済んだら、ガキ共々近くの個人医院に行って、血液検査だな」
リンドウさんの言う血液検査というのは、吸血鬼関係のものだろうか。確かに得体のしれない危険な感染症にかかっている恐れがあるなら、すぐに検査・隔離をして他の人に広がらないようにすることは大切だと思うが、出血多量で血を止める手当てをした後に、またすぐ血を採るのもそれはそれで危ない気がする。
「噛まれたってことは、その女もガキからウイルスをもらってるかもしれん。ガキの検査結果次第では、女も一緒に、隔離施設の、鉄格子の入った部屋に行くことになる」
鉄格子の入った、隔離のための部屋……。独房のような寒々とした密室に閉じ込められたヤエちゃんの姿が頭に浮かび、心がずっしりと重くなる。それなら第一営業所の地下牢跡で預かりますと朔子さんが必死に訴えるが、リンドウさんは首を縦には振らなかった。
「そんな偉そうなこと言ってるけどよ、大丈夫だと思って一度はあんたらに任せた結果がこれだ。果物屋のおっさんは結局あの後陽性が出て死んだよ。そのガキもそのうち正気でいられる時間がだんだん減っていって、近づく人をひたすら噛んで、しまいには体が痺れて動かなくなって、衰弱して死ぬんだ。たぶんあの女もだめで、そうなると男の子は身寄りがなくなって孤児院行きになる。あんたらのいい加減な対応のせいで少なくとも3人は死んで、4人の人生が台無しになったんだ。預かった命と人生の責任も取れないくせに、善人面して、軽々しく人の仕事に首を突っ込むんじゃねぇ」
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