第36話 銭湯の親子(4)
明らかな異変が始まったのは、次の瞬間だった。朔子さん怒ってるみたいだけど大丈夫かな、あまり強い言い方して余計に揉めなければいいけど…などと私がいかにも小心者な心配をしていると、隣にいたヤエちゃんが不意に頭を抱えて床にしゃがみこみ、体の不調を訴えた。
「痛い、頭が痛い…」
その声の辛そうな声に反応し、ヤエちゃんの方を一瞥した女性が不快そうに吐き捨てる。
「なんだ、このガキ。病気ならさっさと出ていけ。うつったらどうするんだ。気持ち悪いな」
朔子さんの眉間のしわが一段と深くなる。まずい、やっぱり怒っちゃうのかな…。でもそれより心配なのはヤエちゃんだ。高熱があるのか顔は赤いし、目はうつろで焦点が合っていない。呼吸も荒く、肩を大きく上下させている。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
先ほどまでシャンプーを嫌がって泣いて暴れていた男の子が、心配そうな顔でヤエちゃんの方に近づいてくる。
「お熱あるなら、お水持ってこようか?」
この子はお母さんと違って優しいんだなと勝手に感心し、温かい気持ちになっていると、思っていた通り母親らしき例の女性が口出しする。
「ほら、そんなのもういいから、早く行くよ。頭流すのも家帰ってからでいいから、もう帰ろ。まったく、気持ち悪いったらありゃしない」
「でも…」
男の子はヤエちゃんの額に手を伸ばして、熱を確かめようとする。気が弱そうに見えて、意外としっかりしているようだった。あのおっかないお母さんにやめるよう言われても負けていない。
「本当に、熱いよ」
朔子さんも、さっきまでの怒った顔とは打って変わって、気づかわしげな様子で、男の子に次いでヤエちゃんの額に触れる。
「ただの湯あたりだとは思いますが…熱がとても高いみたいので、上がったら念のため、お医者さんにも診てもらいましょうか」
「ふん、勝手にしな」
女性は我関せずといった風情で私たちに背を向け、脱衣所の方へ出ていこうとする。そのとき、床にへたり込んでいたヤエちゃんがすっと立ち上がり、女性の右手首にガブリとかみついた。
「お母さん!」
男の子が悲鳴を上げる。
「くそ、何だこのガキ、放しやがれ」
女性は噛まれた腕を大きく振ってほどこうとしてみたり、自由になる方の手でヤエちゃんのおでこを押して噛んでいる口を何とか引きはがそうとするが、歯が腕に深く食い込んでいるのか、全く外れる気配がない。私も加勢し、ヤエちゃんの脇の下から手を入れ、羽交い絞めにするような形で後ろへ引っ張り、2人を離そうとするがうまくいかない。番台まで人を呼んできますと、朔子さんが駆けてゆく。被害者を含む女3人と子ども1人ではどうにもならないと判断したようだった。
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