第34話 銭湯の親子(2)

 それでもすぐ帰ろうと思えないのは、今日一緒に来ているヤエちゃんのことがあるからだった。彼女は天界交通で社員見習いとして掃除の手伝いをする傍ら、アケボノさんの厚意で日中は地域の小学校へ通わせてもらっている。先述した学校の宿泊行事にも参加することになっているので、そこで私もガイドとして同行すれば、ヤエちゃんと私の、最後の良い思い出づくりになると思う。それなら、今日の温泉行きで十分な気もするけど。

 むしろ、気がかりなのは私自身の身の上のことだった。もし元の世界に帰ったとしても、母親が家に戻っている保証はない。失踪が続いていれば、飢え死にするか、私を嫌う父親のところへ行くか、一度も会ったことのないような遠い親戚に引き取られるか、はたまた施設送りになるか。どのパターンも、あまり考えたくない。せめて、母が、心を入れ替えて、仕事の後、家に帰ってきてくれるようになったら…。まあ、そんなことは起こりえないだろう。

 気が滅入って鬱々としていると、不意に隣から話しかけられる。ヤエちゃんだ。

「恵理ちゃん、ぼーっとして、大丈夫? もうのぼせてるんじゃない?」

 大丈夫と答えたが、ヤエちゃんは納得していない様子で、心配顔だった。

「ヤエも暑くなってきたから、もう上がろう。朔子お姉ちゃんももう上がって休憩室で待ってるよ」

 ヤエちゃんに促されて、私は浴槽から出る。濡れた体に冷たい風が当たって寒い。ヤエちゃんは顔が赤くなっているので、本当にのぼせているのだろうけど、私はもう少し温まりたかった。思春期に入り、月のものが来るようになってからはすっかり冷え性になっていて、秋から冬にかけてはずっと足指が冷たく、30分は湯船に浸かっていないと温まった気がしない。彼女だけ先に戻ってもらうこともできたが、何より年齢1桁と小さいし、かかわっていく中で寂しがり屋で繊細な面を知ったので、付き添って一緒に上がった方がいいだろうと思ったのだ。朔子さんも待っていることだし…。

 二重になっている引き戸を開けて内風呂と洗い場の側に入ると、熱く湿った空気がむわりと体を包み、私はそれまでの寒さを忘れた。外にいるときはわからなかったが、誰かの大きな泣き声が浴室中に反響している。見ると洗い場で5、6歳くらいの男の子が頭にシャンプーの泡を付けたまま、それをシャワーで流そうとする母親らしき女性の腕から逃れようと手足をじたばた動かして泣いていた。他所の世界でも、小さな子どもというのはよく泣く生き物なのだなとおかしなところで感銘を受けていると、隣のヤエちゃんが顔を青くして小さくつぶやいた。

「お母さん…?」

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