第6話 異世界バス(2)

「それで、ほとんど何も説明されないまま、ここに連れてこられたってわけか。君も災難だったなぁ」


 営業所1階、玄関横の事務室で、床に散らばる段ボールを片付けながらウィルさんがしみじみと言う。その後ろでは黒砂さんが黙々とモップかけをしていた。


「狭いしごみの他なんにもないけど、好きに使って」


 私はただうなずくことしかできなかった。事務室は彼のいう通りひどく散らかっていて、お世辞にも片付いているとは言えない。デスク周りの床には机の上から落ちたとみられる、いろいろな書類がファイルに挟まったまま散乱しており、足の踏み場もないような状態だった。壁際には、ゴムボールやスコップ、防災無線、蓋のない薬缶など、ここでの仕事とどんなかかわりがあるのかよくわからない品々の入った段ボール箱がいくつも置かれており、整理整頓される日を待っていた。棚の上にも書類の入った箱がずらりと並んでいる。これは地震が起きたらすぐ死ぬなと思いながら、洗濯のため、段ボール箱の中に放置された毛布を2,3枚ほど取り出し抱えてみる。非常用に備えてあったこれらの毛布は、やはり長いこと干していないらしく、梅雨明けのカビ臭いにおいがした。


◇◇◇


 バスが目的地に着くまでの間、アケボノさんは、私がこれから暮らす異世界と職場の天界交通について簡単に説明してくれた。私が配属される第一営業所は、魔王の独裁時代に建てられた「白の監獄」という刑務所のような施設で、もともとは政治犯を収容するために作られたらしい。魔王が倒れ共和制の時代になってからは、魔王時代の負の歴史を伝える博物館として一般公開されていたが、ふたたびクーデターが起こり、無政府状態の混乱の中で廃墟になりかけていたところを、天界交通の社長がめざとく見つけ、自社の営業所として転用し今に至るということだった。せっかく独裁政権を倒しても、それに代わる新しい統治者が決まらず、内戦状態が続くという状況は、私が元いた世界の、中東と呼ばれる地域のいくつかの国でも今まさに起こっていることだ。日本だっていつどんな状況になるか分からないし、近いうちに選挙の投票権を持つ人間としてここまで他人事を決め込むのもどうかとは思うが、政治は難しいなとつくづく思う。「悪い奴をやっつける」だけでは問題が解決しないことも多いみたいで、勧善懲悪のヒーローものほど、簡単じゃない。

 私がこの異世界で住む家は、天界交通の職員寮…かつて監獄の看守たちが使っていた官舎を改装した建物…だったはずなのだが、そちらはほんの半月ほど前に野盗の襲撃に遭い、とても住める状態ではないと聞く。


「こちらからお呼びしたのに申し訳ありませんが、しばらくは寮ではなく、わが社の第一営業所、通称白の監獄で寝泊まりいただくようお願いいたします」


 アケボノさんはそう言って頭を下げた。申し訳ないと思うなら、はじめからもっと安全できれいな家を用意してほしいと思ったが、もしかするとこの異世界に安全な住まいなんてどこにも存在しないのかもしれなかった。先ほどから独裁、クーデター、野盗と物騒な言葉ばかりが続く。元の世界の、母との不安定な生活と、どちらがましなのだろうか。


―恵理、てめぇ生意気なんだよ。

―あんたなんか、産むんじゃなかった。


 いつぞやの背中のあざ、腕のやけどが痛むような気がして、私は顔をしかめた。どういうわけだか、私は幼いころからずっと、周りの大人や年上の子どもによく叩かれ、殴られ、蹴られていた。「子どものくせに理屈っぽい」こと、「すぐ口答えする」こと、「反抗的な目」をしていることが皆様のお気に召さなかったようだが、こちらからすると一体何のことを言われているのかさっぱりわからず、そのたびにおびえ、困惑した。運転席のバックミラー越しに、こちらの異変に気付いたアケボノさんが、大丈夫ですかと尋ねてくる。全く大丈夫ではなかったが、かろうじて絞り出すような声で大丈夫ですと答えることができた。正直に弱音を吐いたところで誰も助けてはくれない。同年代はメンヘラだと思って気味悪がり逃げていくし、大人は、かかわると面倒なことになるぞと警戒し、そっと離れていくだけだった。


―あんたみたいなのが、小説書いてるとか、マジありえない。


 かつての友人の、容赦ない発言がよみがえり、私はぐっとこぶしを握り締める。消化されていない菓子パンとオレンジジュースの混合物が喉までせり上がってきて、吐きそうだった。あの子…私の遊び仲間で高校2年生のチハ姉から本を読んでいるという話は一度も聞いたことがないし、将来について語り合ったこともなかったというのに、あの時の私は、なぜわかってもらえるなんて思っていたのだろう。母子家庭で親から放っておかれがちという似た境遇が、私を彼女に対して必要以上になれなれしくさせたのかもしれなかった。


「第一営業所には医療の心得がある者もおりますからね。安心してお休みください」


 アケボノさんのさりげない思いやりに、すっかり安堵させられた私は小さくうなずいた。自分の家や地元より、得体のしれない異世界の方が居心地がいいなんて、ひどい人生だ。だけど、自分を憐れむつもりはない。嘆けば嘆くほど、ツキはなくなっていく。今はただ、淡々と日々をやり過ごし、生きていくだけ。しかし困ったことに、元友人・チハ姉の厳しい言葉はまだ終わらなかった。


―バカのくせに、なに目をキラキラさせてんの。うちらみたいな「底辺」が頑張ったところで、大したものになれるわけないじゃん。


 過去の痛みを振り切れないまま、私はうつむき、いつしか深い眠りに落ちていた。


 

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