③
◆◆◆
アホ晴兎に引っ張れていった私は、温泉に浸かっていた。
「はぁ~…………」
じんわりと体全体に沁みていく熱さがたまらない。
こんなにゆっくり温泉に入るのなんて何年ぶりだろう。前に入ったのは……家族で旅館にお泊りした時? いやでもあの時は汐凪家の用事で行かされたようなものなのでノーカウントにしたいところだ。
「だとしたら……」
晴兎のお父さん達がこっそり連れ出してくれた時が最後? あれっていくつの時だったっけ……まさか十年は経っていないと思うけど。
でもアレはとても楽しい旅行だった。ギスギスした空気なんかとは無縁で、誰も彼もが大笑いしているような騒がしくて賑やかな明るさに満ちていた。
「…………」
そんな楽しさを思い出してしまったからか。
私は急に寂しさを覚えてしまった。
今入っている温泉は何も悪くない。
駅からタクシーでそんなに離れていないところにあるし、日帰り入浴もできてお値段もリーズナブル(※ぶっちゃけるならとても安い)。決して豪華な浴室ではないかもしれないけれど、ひなびた温泉としては悪くない。ノスタルジーすら感じてしまうような岩風呂で、きっと色んな人が安らいだはずだ。
他のお客さんだって少しはいる。
でも、何か物足りない。寂しい。
「…………ぶくぶくぶくぶく」
その理由に思い至った私は、お行儀悪く顔の半分くらいまで湯船に沈んだ。
絶対に。
絶対に本人の前では言わないけれど。
この物足りなさは、どこぞのお馬鹿な従兄がいないからだ。
「……むぅ」
なんて事だろう。
私は一体いつからそんな寂しんぼになってしまったのか。
確かに私はあいつにお世話になっている。
いきなり家出してきた私を、晴兎は驚いてはいても追い返すことはせずに家に上げてくれた(※例え下心があったとしても)。
お母さんから電話がかかってきた時も適当に誤魔化してくれたし、その後は一晩どころかずっと家に泊めてくれている。休日には服を買いに行ったり、プールに遊びに行ったり、スカイツリーなんて二回も登った。
妹の美希が来た時だって笑いながら出迎えて、今度は姉妹揃ってお世話になっても大きな文句ひとつ言わなかった。私だったら誰かが自分の家(部屋)に二人も泊まるとなれば間違いなく文句が出るはず。というかソレが普通よね。
挙句の果てには一回実家に帰ったはずの私が約束にかこつけてもう一度来ても、どうぞどうぞと再び家出生活を許容している。なんだろう懐が広いというか器が大きいのかな? いや、単に何も考えていないだけ……いやいや、油断したところをパクッと頂こうというオスの欲望を増幅している真っ最中だとしたらどうだろう。
今日海に連れて行ってくれたのも、弾丸ツアーばりに箱根をぐるっと一周するなんて無茶も、すべては私を油断させるための送りオオカミならぬ連れまわしオオカミの罠――――。
「……あほかぁ」
私の勝手な妄想劇は、その一言で終幕となった。
だって……そんなはずがないから。
晴兎がどう考えているのか正確なところは分からない。でもあいつは、言いたいことがあればはっきり口にするし、隠し事はあんまり上手じゃない。
何より……私をとても大事にしてくれている。
そこは間違いなかった。
付き合いが長いから分かる? ううん、短くてもきっと分かる。
晴兎としっかり接したことがある人なら、誰もがあの良さに気が付くの。
だから……晴兎の周りには不思議と人が集まる。友達がたくさんできる。仲間が増えていく。
上辺の付き合いばかりでやや孤立気味な私とは大違いだ。
「はぁ~~~~……」
幸せが逃げていきそうなくらい盛大な溜息を吐きながら、少しだけ湯船の中で両足をバタつかせる。許されるならこの場で泳ぎたい。そして、ネガティブさを洗い流したい。
ついでじゃないけど……のぼせそうなこの気持ちもどうにかならないか。
なんだかんだで晴兎との仲は深まっている。
そこに従兄に感じる以上の感情が無い、とは言えない。
むしろ有る。
なんならどんどん大きくなっている。
「マズイかなぁ……」
これ以上この気持ちが膨らんでいったら私は、私達はどうなるのだろうか。
今と同じようにいられる? それとももっと仲良くなるのか、深い仲になるのか。あるいは拗れて離れて行ってしまうのか。
分からない。
分からない分からない。
こんな風に思ってしまうのは、この年になってからは初めての事だから。
子供の時であれば「そんなこともある」とか「仲が良くて何よりね」なんて感じに済ませられそうな事でも、異性と一緒にいるだけで恋バナのネタにされそうな年齢になれば同じようにはいかない。
「もう、いっそのこと」
――告白でもしてみようかしら。
セリフはこんなのはどうだろう。
「ばり好きやけん。うちと一緒に地獄ん果てまで行ってくれると?」
うん? これじゃ告白は告白でも、心中の台詞かしら。
あるいは駆け落ち的な?
ああ~~~~~ダメダメダメダメ。やっぱり私はすっかりゆでだこになっているみたい。
一旦上がろう。頭を冷やそう。
水風呂に入るのもいいかもしれない。
冷ました後は、誰もいないタイミングを見計らってぷかぷか仰向けで温泉に浮かぶのも有りかもしれない。
すっかり悪い子化してきた私は、隣接した男湯の方から聞こえてくるカポーンという音を耳にしながら、またブクブクと沈んでいくのだった。
◆◆◆
「やっべ」
どうしてこうなった???
オレはそう思わずにはいられなかった。
どうしてオレは、背中に可愛い従妹様を背負った状態で、箱根湯本駅の改札口前で立ち尽くしているのだろうか。
後ろからは「すぅすぅ」と気持ちよさそうな寝息ばかりが聞こえ、少し前から押し付けられてくる大きな膨らみの感触が気になって仕方ない。「なんだお前誘ってるんか?」と冗談のひとつも言いたいが、寝ている真里那からの返事は無い訳で。
「やっべ」
つい、同じことを繰り返し呟いてしまった。
だが同時にこうも考えた。開き直ったと言い換えてもいい。
「まあいっか! よく考えんでも一日ぐらい家に帰れんところで、なーんも困るもんは無かったわ。わーっはっはっはっは!!」
お気楽気分で笑い飛ばしたら、さっきまでの「やっべ」な気持ちが嘘のように吹き飛んでゆく。気にかけるとしたら背中の眠り姫が起きた時、どんな罵詈雑言が飛び交うかぐらいだが……ま、どうとでもなるだろう。
だって、こうなった原因はコイツにもあるし。
完全に帰りの電車が終わってしまった掲示板を一瞥する。
何故オレ達は地元に帰れる電車を逃してしまったのか。近くに手頃な宿泊施設があったよなーと思考しながらも、こうなった原因にオレは想いを馳せた。
◆◆◆
温泉からあがったオレは、待ち合わせ場所にしていたフロント近くの休憩スペースに向かった。
ここまではイイ。さすが箱根の温泉というべきか、身体と心の汚れは綺麗さっぱり爽快感あふれる程に流せて極楽極楽ひゃーひーほーい! と無駄にテンションが上がっていたぐらいだ。
だが、そんな無駄なテンションはクールビューティーな従妹様にも働いていたらしく、何故にか休憩スペースにいた真里菜は火照った艶めかしい表情でお待ちになられていたのだ。
「おいおいどうした? 温泉で新たな扉でも開いたかぁ?」
「…………そうかも」
てっきり罵倒のひとつは飛んでくると思っていたオレの予想は見事に裏切られた。よくわからん内に色気成分濃厚になっている真里那が、流し目で見てきたときにはドキッと来たもんだ。
「ほんとにどうした」
さすがに茶化している場合ではないと気づいたオレが様子を伺う事しばし。まさかコイツ酒を飲んだんじゃ……なんて疑いもしたが、さすがにオレが一緒に居る時に悪ノリしたならまだしも、単独でそんな行為に及ぶはずもない。
なので、オレの診断は。
湯あたり、のぼせた、気が抜けたのどれかだろうとなった。
「歩けるか? あっちにお座敷があるからそこまで行くぞ」
「……うん」
なんとも素直に従う真里那は、非常に可愛げがあった。
あの体全体が冷え込むような態度や視線も良いが、こういうのも悪くない。
とりあえず肩を貸したりしながらお座敷スペースへ移動。真里那を横にさせてから、併設された食事処で水とジュースと冷たい食べ物をゲットしてくる。
「どれか欲しいもんあるか?」
「……じゃあ、お水」
「はいよ」
こくりこくりとコップ一杯分の水を真里那が飲み干していく。
あっという間に空っぽになったのを見るに、のぼせた&気が抜けたか? よっぽど具合が悪そうであれば医者に診せるとこだが、そこまでひどそうでもない。
こうなると、ひとまずは様子見を兼ねてゆっくり休ませるのが正解だ。
そんな感じに判断したオレは、借りてきた団扇で仰いだり欲しい物があったら買ってきたりとすっかり看病モードに突入した。
「少しはマシになったか?」
「……うん、ありがと晴兎。大分マシになってきた」
「そいつは良かった。しっかしなんだお前、そんなホカホカになるぐらい温泉にどっぷり浸かってたのか? 前からそんな温泉大好きだったっけ?」
「ちょっと考え事をしてて……」
「ほう? どんな?」
「そのふざけた顔を見たら……話す気も失せるわ」
「調子が戻ってきたようで何よりだ。ま、アレだろ。海行った後に箱根を巡ってるし、今日じゃなくたって色々出掛けたりしてたしな。ちょーっと温泉のほっこり安らぎパワーで疲れがどっと出たとかそんなんだきっと」
「適当ねぇ……」
「かもな。でも大抵は少し休めば回復するもんさ、若いんだから」
「なに突然。年寄りみたいよ」
「元気ビンビンな野郎に向かって年寄りとはなんだ、年寄りとは」
「変態。近づくなバカ。少しでも触ったら通報するわよ」
「へいへい。精々そうならないようにするよ」
「…………ごめん。冗談」
「知ってるから謝る必要はないぞ」
ころんと横になっている真里那の身体に、貸し出し用のバスタオルをタオルケット代わりにかける。枕は座布団で代用だ。
「ふあ……こうしてると寝ちゃいそうだわ」
「寝ろ寝ろ、寝てしまえ。寝る子は治るぞ」
「…………うん。お言葉に……甘える」
うつらうつらしてきた真里那のおでこに掌を置く。
熱は高くはないので、大丈夫だろうと思えた。
「ねぇ、晴兎」
「ん?」
「人が寝ている間……の、悪戯は……」
「しちゃダメってか? はいはい分かってま――」
「しても、バレない……かもね?」
「え、ちょおま。いまなんて」
今までに聞いたことない類の挑発するような言葉に返答を求めたが、返ってきたのは静かな寝息だけだった。
寝つきの良い奴め。のび太くんかよ。
「は~……」
とりあえず一安心。
ゆっくりと息を吐きながら、オレはその場にどっかりと座り込んだ。
……んで。
あくまで自然を装ってではあるが、ちらちらと寝ている真里那の方を見てしまう。
真に遺憾ながら、オレの男心はゆっくり大きく上下する真里那の胸部を初めとした、無防備な女の子がすぐ傍で寝ているという事実に釘づけになっていた。
最低であろうか。
いやいや、こんな状態で見ない方が失礼ではないか。
これで状況が状況なら「こちらも抜かねば無作法というもの」なんて口走ってるところだぞ! くっそ、ここが日帰り温泉の休憩スペースでなければ……なんて考えてもおかしくないだろフツー!
――今更何言ってんだ。コイツと基本ひとつ屋根の下で暮らしてるクセして……なんて囁きが頭に響いてきそうだがガン無視である。オレもちったあ節度を守ってやれるというところを見せておかねばならないしな!
まあ、一番見せた方が良さそうなヤツは寝てるんだけどさ!!
なんて感じで。
ちょっとしたムラムラをやり過ごしつつ、オレ自身も食事処で買ってきた物を喰ったり飲んだりしている内に眠気が訪れてきて。
「…………ぐぅ~~~」
いつの間にか寝落ちしていた。
そして、気づいた時には。
『お客さん、お客さん。悪いけどもう店仕舞いだから起きておくれ』
身体を揺すられて覚醒するオレ。
横にはいまだスヤスヤと寝ている真里那。
ふと時計を確認すると――――。
何という事でしょう。匠の睡魔によって見事なまでに終電ギリギリ――つうか高確率で間に合わない時間になっていたではありませんか!
以上。
コレが改札口前で寝床を探す事になった男の一部始終でありましたとさ。
◆◆◆
「ん、ううん…………」
「おっ、ようやくお目覚めか。お前すっげえぐっすりだったぞ?」
「晴兎……? あれ、ココどこ?? 知らない和室……」
「それではここで問題です」
ココはどこでしょう!
①ラブホ
②旅館
③知り合いの家
「さあ選べ!」
「ええ……どれも選びたくないんだけど。というか、その中に正解、本当にあるの? なんで私達は家に戻ってないのか不思議で仕方ないんだけど」
「奇遇だな。オレも似たような気持ちはあるぞ」
「…………はっ!? ま、まさか!? 晴兎、あなた遂に大きな魔が差して、とても人には言えない事をしようと私を無理矢理かつ強引に……? ダメよ、私達は清く正しい従兄妹同士でいようって誓ったのに」
「記憶になさすぎる。つうか捏造すんな」
「え、違うの? 誓いはともかく魔が差したのは合ってるんじゃ」
「差したのは魔じゃねえ。眠気じゃ」
「眠気……??」
「つまりだなぁ」
かくかくしかじかと経緯を説明するオレ。
説明し終わると、真里那のヤツが一気にしゅんと小さくなってしまう。
「ごめんなさい……まさかそんなに寝てしまってたなんて」
「落ち込み過ぎだぞ。別にいいだろ寝過ごすくらい」
「迂闊、迂闊だわ……私ってばほんとに」
「おーい真里那さーん? どんより雲が浮かんでるぞー」
「(ぶつぶつ)」
「そんなん続けてても事態は好転しないぞ。今日はもう家に帰れないのは確定、泊まるのも変わらん。だったらそこからどうするか考えた方が有意義だ」
「それもそうね」
スパッと暗雲を断ち切るかの如く、真里那がいつものすまし顔に戻った。
切り替えが早いというか、調子が良いというか。
「でも本当にごめんね。箱根の宿泊代とか高いんじゃない?」
「まあ少しは?」
そんな高級旅館でもなければ、そこまで値は張らんのだが。
「ちゃんと返すから。これまでの分と合わせてね」
「どうやって?」
「うぐっ、それは…………」
ちょっと意地悪な質問に対して、真里那が呻く。
どんな答えが返ってくるかワクワクしながら待っていると、大変いい辛そうな雰囲気の従妹様は変なことを口走り始めた。
「か、身体で払うとか?」
「ぶホッ!? か、身体で払うとか……お前がッ? くくく……さっき迂闊がどうとか言ったばっかりなのに、その答え……ぶははははは!」
「なんで笑うのよ!? しょーがないでしょ他に思いつかなかったんだから!!」
「ぷくくく、ハァーハァー……ああぁー腹いてぇぇ。だってお前、他にも色々選択肢があるだろうに、よりにもよって体で払うとか……ぶふぅ! 一番最後に来そうな答えが最初に飛び出るとは、このエロ助め!」
「え、エロ助ぇ!!?」
「エロ助もエロ助だよこのドスケベめ。真里那は頭はいいはずなのに時々明後日の方向に剛速球を繰り出すよなぁ、好きだけどなぁそういうとこ」
「……ぐぬぬぬぬ」
「ま、ほんとにどうしようもなくなったらサービスしてくれよ。その辺のヤバイ奴に媚びるよりなんぼかマシだろ」
「は? なんで晴兎にサービスしなくちゃいけないのよ」
「いやだって体で払うってそういう意味だろ」
「……待って。何かおかしい気がするわ、一体どんなのを考えたの? 怒らないから言ってみなさい」
「はぁ? だから――」
そこで、はっと気づいた。
もしかしてオレ達は、各々ヤッちまったのかもしれない。
そうなると今度は、オレが汗をダラダラ流すハメになるのではないか、と。
「ちなみに私が考えたのは、肉体労働系のお仕事なんだけど」
「…………」
はい確定。
この瞬間、どっちがエロ助かが決まったのだ。となれば逃げの一手しかない。
「そうそう、オレもそう考えたんだ。箸より重い物を持ったことが無さそうな真里那が、肉体労働なんてすることないんじゃないかってな」
「へぇ~……。なら、その肉体労働のどこにエロ助呼ばわりされる要素があるのかしらねぇ?」
「オレ達界隈だとそう呼ぶ文化があってな。よっ、さすがエロ助! その働きっぷりには惚れ惚れするねぇ、みたいな粋な言い方が一部のトレンドで――」
「ふーん。じゃあ今度から晴兎がお仕事してる時は、よっ、さすがエロ助って呼べばいいのかしらね」
「勘弁してください!」
オレは二つの意味を合わせて頭を下げた。
どう考えても誤解しか生まなそうだから。
「えっち」
「弁解できん」
「何がその辺の奴よりマシだし、サービスしてくれ、よこの変態スケベ。イエロカードを越えてレッドカードよレッドカード。即退場レベルのひどい誤解だわ」
「ああん!? もとはといえばそっちが顔を赤くしながら“か、身体で払うわ”なんて艶めかしい言い方すんのに問題があるんじゃないっすかねえ!?」
「ぎゃ、逆切れ!? ちょっと一方的に責任を押し付けてくるのはフェアじゃないわよ!」
「るせぇ!! 人が大人しく反省しようとしたら弱みに付け込んできやがってからに。あんま調子乗ってっととても人には言えない目に遭わせるぞいいのかコラァ!」
「今度は脅迫!? ちょっとさすがにそれは看過できないわよ!」
「上等だゴラァ!」
ここからしばらく、見苦しい言い合いと取っ組み合いが続いた。
あまりにもお見苦しいため全面的に記憶のはざまに放り込んでカットである。
「はぁはぁはぁはぁ……」
「ふぅーふぅー」
「ど、どうだ参ったか」
「誰も参ってないけど、そろそろ終わりにしましょう。不毛だわ」
「異議なし」
せっかく温泉に入ったというのに、汗だくになるオレ達は一体何をやっているんだろうか。まあ溜まっていたものを吐き出したって点では意味はあったかもだが。
「あ、あっつー。やだ、服がびっしょりになってそう」
「さすがドスケベ真里那」
「…………は? ヤ●チン従兄に言われたくないわね」
いつどこでそんな言葉を覚えたんだ従妹よ。
いや、うん。オレの部屋だよな多分、ごめん。
「分かった分かった、今のは完全にオレが悪いって認める。だからそんな凍てついた目で睨むなって」
せっかく無駄な諍いを終えたというのに、今から第二ラウンドは億劫すぎる。
「着替えたい……」
「浴衣ならあるぞ。どーせなら大浴場にでも入ってくればいいんじゃね? ここも温泉だぞ」
「自然な流れを装って人をお風呂に行かせるのが怪しいわね……」
「深読みしすぎだ!? 特に意味はねえよ、言ってみただけだっつーの」
「そもそも今何時? 終電逃したあとだっていうなら、お風呂も閉まってるんじゃ」
「ココは夜中でも空いてる宿だから大丈夫だ」
「じゃあ……入ってこようかな」
「そうしろそうしろ。ちなみに先に浴衣に着替えた方が荷物が少なくて楽だぞ」
「それでは先に着替え……ちょっと待って。なんで晴兎の前で着替える必要があるのよバッカじゃないの? そんなに裸が見たいのかこの変態従兄!」
「濡れ衣だ!? オレが一言でも目の前で脱いでくれなんて言ったか!」
「本音は?」
「裸なんていつでも見たいに決まってるだろ、頭おかしいのか?」
「おかしいのはそっちでしょ!!」
座布団を顔面に投げつけられて。
ようやく夜の従兄妹バトルは決着した。
――――だが、オレはまだ知らなかったのだ。
コンコン(ノックの音)。
コンコンコン。
「げ、こんな時間に誰がノックなんて……まさか騒ぎ過ぎて旅館の方から直接注意にきたとかじゃねえだろうなッ」
ある意味、対戦相手のド本命。
そいつとの第二ラウンドがこれから始まる事を。
「はいはい、今出ますよっと」
ガチャリとドアを開ける。
すると、そこに立っていたのは。
「げっ」
「出会い頭に『げっ』とはご挨拶ね、晴兎さん」
「……きっと聞き間違いさ、真里那ママさん」
真里那に似た妙齢の女性。
なんでこんなところに居るのか、わからない人物。
小さい頃から真里那ママなんてオレが呼ぶのはこの人だけ。
ついでに言えばなるべく会いたくない人、上位勢の一人。
そんな真里那の母親・
いや。
本当になんでココにいるんだこの人。
◆◆◆
「…………」
「…………」
いかん。この沈黙に耐えられん。
突如部屋にお邪魔してきた麻衣子さんはローテーブルを挟んで向かい側に座ったあと、だんまりのままだ。
おそらくその胸中ではオレに対してぶちかましたい数々の言葉が複雑にかみ合っており、一体どこから切り出していびってやろうこのスットコドッコイを! と吟味しているのではなかろうか。
ふむ。
いざとなったら強引にでも追い出す覚悟はしといていいかもな。そう思い始めた矢先。
「晴兎さん」
話を切り出してきたのは相手の方からだった。
「真里那がお世話になりましたね」
「え!? いやまあ、お世話になったというかなんというか……」
意外な出だしだ。
てっきりロケットスタートでなじられるもんだと思っていたんだが。何故かといえば、オレとこの人は親戚ではあるが、あんまり仲がよろしくないためだ。現状に至っては可愛い愛娘の家出を突っ返すどころかオールオッケーしてるクソダメ男と感じていてもおかしくないわけだしなぁ。
「あの子とはどうですか?」
「そうっすね、持ちつ持たれつって感じで上手くやってますよ。少なくともあいつが泣くような真似はしてないって感じです」
「そうですか」
「ええ」
相槌を打ったら、またしんと場が静かになってしまった。
ならば今度はこっちから話を振ってみよう。
「それにしてもよくココに居るってわかりましたね」
「……本当はあなたのおうちで話をするつもりでしたが、訪問しても留守だったもので」
なお、オレは麻衣子叔母さんに何一つ住んでる場所の情報は直接伝えてない。
電話番号だって教えていない。だが、そのはずなのにこの前は電話がかかってきたわけで……つまりその気になればその程度幾らでも調べられるっつーことだ。
パイプの太い金持ちや権力者は怖いねぇ。
その辺を踏まえると、今の麻衣子さんの言葉はこんな感じに言い換えられる。
『わざわざ家に出向いたのに留守で、おまけにこんなところで泊まるとか何様だこの野郎』と。
「番号や住所は美希ちゃん経由だとしても、さすがに突発的に泊まることになった宿まではわからないでしょ。やっぱ、箱根湯本駅に到着した辺りから見かけた人達に見張らせてたんだ」
「ッ、気づいていたのですね」
「ちっちゃい頃からそういうのに付きまとわれることが多くて。なんとなーく見分けられるようになったんすよね。みんな仕草と恰好が似通ってますし」
まあ、早くとも真里那がウチに改めて家出してからだとは思うが。
へんぴなウチの周りで普段はいないよう輩をちらちら目にすれば、オレなら気づくわけで。逆に言えば、気づかれてもいい監視者程度のもんなわけで。
きっと真里那の様子を叔母さんに知らせるための人員だろう。
本人が直接来るのはやっぱり驚いたけどな。理由も想像はつくが、出来たら外れて欲しいもんだ。
「オレは遠回しな言い方は好きじゃない。だから率直に話してもらえますか?」
「……いいでしょう。私もその方が早くて助かります」
そう言うや否や、麻衣子さんは深々と頭を下げた。
あの麻衣子叔母さんがオレに!?
珍しいその行動に内心ギョッとしたが、表情は変えないよう努力する。
「晴兎さんのおかげで、飛び出した娘が行方知れずになるような事態は避けられました。まさか東京まで行くなんて思ってはおらず、下手をすれば知らないところで事件に巻き込まれていたかもしれません。……そうならなかった事に感謝しています」
「麻衣子叔母さん……」
その言動に嘘は無かった、ように思う。
そういう意味では最悪ケンカを売られるという展開では無かった。
ただ……残念なことに「はい、それじゃあこれで終わり」にはならないのだ。
その証拠は、麻衣子さんが出してきた分厚い封筒である。うんまあ、中身は確認しなくても分かる。
――金だ。
「ご迷惑をおかけしたことに対するお詫びです」
「…………」
「受け取ってください。手切れ金を含めると少ないかもしれませんので、その場合は後日にご連絡いただければ――」
「ははっ………………」
残念だよ叔母さん。
オレは、本当に……本当に大きなため息を吐いた。
「用件はそれかい?」
「ええ」
「そっか。じゃあ用が終わったら帰ってくれ」
「お返事はいただけないと?」
出来るだけ温厚に話し合えたらいい。そう思っていたオレの心が一気にささくれ立って、半ば無意識にぷちんとキレた。
やっぱ好きになれんわ、この人。
「そんなに返事が欲しいんだったらくれてやる。オレはあいつがコッチに居たいっていうならずっと居させてやるんだ。だから、実家に連れて帰りたいっつーなら真里那とちゃんと話をして、納得させてからにするんだな」
「…………あなたは、相変わらずですね」
「ああ?」
「聞こえませんでしたか? 子供のままだと言ったのです」
「はっ! 辛くて家から逃げた娘を金の力で連れ戻そうとするあんたは、さぞ立派な大人なんだろうな」
汚い大人は願い下げだ。
そんな奴に真里那を渡すわけがない。
「なあ、麻衣子さん。あんたがオレを嫌ってるのは知ってるし、こういう風に話をしに来た時点で譲歩してるんだろーけどさ」
「……」
「そうじゃねえだろ? オレの事なんか幾ら後回しにしたっていいから、まずは可愛い真里那の話を聞いてやるのが先なんじゃねえのか。なあ? そうだろ??」
「…………親子の話に口は出さないとお約束してもらえると?」
「その約束は無理だ。オレは真里那がヤバイと思ったら幾らでも口を出す」
「勝手ですね」
「どっちが」
まったく言葉の届いた様子もない。
麻衣子さんとオレが話をしても、進展はしないだろう。
だからこの場は退散してもらうのがいい。
オレはそう促すために、玄関扉を開けてお帰り頂こうとした。
「ま、今日はもう遅いんでね。この辺で話しは終いにして、今度はちゃんと話す約束をしてからきてくださ――――」
そんで気づいた。
玄関扉を開けた先に、浴衣姿の真里那が立っていた。
「おかあ、さん?」
真里那からすりゃ、さぞ驚いたろうさ。
九州の実家にいるはずの母親が、何故にか箱根くんだりの宿に居るのだから。
二人を会わせる気の無かったオレはもう、「え、えぇぇ…………」と残念な声を出すしかない。
「こんばんは、真里那。こっちに来なさい。悪いけれど、手間を省くために少しお話があります」
とても和やかな雰囲気とは程遠い。
オレが用済みになりそうな第二ラウンドの火蓋は、こうして切られたのである。
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