ウィルの夜。

(ニコは気づいてないな)


 彼女を起こさないように慎重に立ち上がり、忍び足で部屋から出る。


「とりあえず明かりがほしいな、ライトとかあるか?」

【はい、点灯します】


 エスは自分に暗視装置や赤外線装置が搭載されているのは把握していたが、それでは今の状況を把握しきれないと考え、できるだけ肉眼に近い、ライトを使用した方法を選んだ。


「さて、絶対に扉を開けるなって言われてるが……こりゃ凄い」

 エスの目に写ったのは扉を真っ黒なが侵食している様子だ。


「黒いな……」

 それもライトで照らしても光沢や凹凸が一切わからない程の完璧な黒。光を反射しないどころか、むしろ吸収してしまっているかのような暗黒である。


「ちょっと触って見るのは……」

【警告、非推奨ですマスター、何が起こるか予想不可能です】

「だろうな、さすがに本当に触らないから安心しろ」


 その侵食は扉から染み出すように溢れ出ている。だが速度はかなり遅く、変なことをしなければいま寝ている寝室まで侵食は届かないだろう。


「朝まで様子見するのが一番だな」

 エスが出した結論は、何もしない事だった。


 ドアノブは侵食によって触ることができず、こじ開けたとしても何かができる可能性は低い。


「そうですねっ、開けたらヘラ様も怒っちゃうでしょうし」

「あぁ………あぁ!?」


 突然の声に反応して振り向くと、そこに居たのは耳を小刻みに動かしながら扉の様子を見ているニコの姿があった。


「起こしたか?」

「そりゃあ気づきますよっ」


 凍えながらハッキリと言うその様子は、気付かない方が難しいとさえ言いたげなぐらい、自身に満ちたものだった。


「なるほど……さすがに獣人に気付かれない用にってのは無理があったな」

「そうですよー」


(幼い見た目してるけど……しっかり訓練されてるよ)

 恐らく主人を守るために徹底的に訓練されて来たのだろう。


「ニコはコレ、怖くないのか?」

「いえいえ、ヘル様の物ですので例え殺されようとも恐怖など感じませんっ!」


 小声ながらもハッキリと、一切怖がったりする様子もなく本心からこの言葉をニコは堂々と……誇らしげに宣言する。


 ヘルの心配が吹き飛ぶほど、エスには今の返答が衝撃的だった。

(おい……コッチのほうがかなり重症じゃねぇか)


 そんなエスの暗い気持ちとは裏腹に、明るい様子を見せるニコ。自分が何を思われているのかもわからずに、彼女はじっと見つめてくるエスに向かって、首を傾げながら見つめ返す。


「先に行っておくけどな、ニコ」

「はい、なんでしょうかっ?」

「……絶対に命を捨てながら、俺を庇うなよ」

「えっ、あ、はい?」


 ニコはよくわかっていないのだろうが、エスにとっては今はそっとしておいていいヘルよりもこちらの方が重大な問題だった。


「寝るよ」

「はいっ!」




 翌朝、予定通りの時間に目を覚ましたエスは、ニコが起き上がってくるのを待ってから、慎重に寝室の扉を開ける。もし侵食が止まってなければリビングも危険である可能性があったからだ。


「……あ、おはよ」

「おはよう、よく眠れたか?」

「……今日の活動に支障がないぐらいには寝れたよ」

「そりゃあ良かった」


 リビングには一足先にヘルがテーブルについて、紅茶を飲んでいた。

「朝ごはん作ってきますねっ!!」

「よろしく」


 大丈夫そうな彼女を見て、エスとニコはお互いにホッと安堵のため息を交わした後、いつも通りを心がけながら朝の活動を開始する……といっても調理があるニコはともかく、エスは調理が終わるのをヘルと一緒に待つだけだが。


「……ねえ、聞かないの?」

「聞くって何を」

「……深夜、多分見に来てたでしょ?」

「扉の前までな、中には入ってないぞ」

「……うん」


 ヘルは最初に挨拶して以降、二人と目を合わせようとしない。恐らく昨夜の出来事を気にしているようだ。


「聞かれたく無さそうだから聞くつもりはない」

「……そうなんだ」

「必要になったら聞くけどな」

「……わかった」


 フライパンからジュウという音が聞こえ、炒め物の音が聞こえてくる。

(今ならニコには聞かれないな)


 調理の音というのは結構大きく、厨房にいるとリビングの声がが聞き取りにくくなる。それは獣人でも例外ではなく、むしろ小さな音でも聞こえてしまう獣人だからこそ、余計に調理の音に遮られて小さな声は聞こえなくなるだろう。


「昨晩な、ニコと一応あの状況を見はしたんだよ」

「……うん、ニコの声は聞こえてた」


 やっぱりかとエスは思う、本人的には小声だったのだろうが、やはり声を抑えきれていなかったようだ。


「まあ、それは置いといてだな……そのニコが」

 もう一度台所の方を確認する、まだフライパンからはベーコンを焼く音が聞こえ、ニコは卵をかき混ぜている。


「……ニコがどうしたの?」

「怖くないって言ってたんだ、いや怖くないのは俺もだったんだけど……」

「…………そう」

 ほんの少し嬉しそうな表情をヘルはここで浮かべる。


「呑み込まれて殺されても良いとまで言ったんだ」

 しかし、そんな微笑みもこの言葉を聞いた途端に曇ってしまう。


「……想定外、かな」

「俺もここまで教育されてるとは思ってもみなかった」


 昨晩のことに一切触れたくはないエスではあったが、これだけはどうしても共有して置かなければならない。でなければ今後取り返しがつかない事態になりかねない。


「俺から伝えなきゃ行けないのは以上」

「……うん、ありがとう」


 会話が止まるが、先程のように気まずい状態ではなくなった。

 ……代わりに空気が鉛の様に重くなったが。


「お待たせしました! ベーコンエッグサンドと紅茶です!!」

「ありがと」

「……ん、ありがとね」


 その空気は三人で食事をしている間も暫くは続いたが、やがて我慢できなくなったニコが口を開いた。


「あの、どうかなさいまし……あ、いや昨晩の……じゃなくて、えっとですねぇ」

『どうかなさいましたか』と聞こうとしたニコだが、重い空気の理由が昨晩の事だと思っているニコはどう話題を切り出していいか解らなくなり、落ち着きがなくなる。


(さっきの会話は聞かれてないな)

 空気が重たい理由は昨晩のことではなく、自分のことだと知らないニコは困り果ててしまい、やがて黙ってしまう。


「……ふふ、ニコったら」

「ヘルさまぁっ!」

「……いいんだよ、別にいつも通りの話をして」

「いつも通り……えっと、あれいつも朝何を話してましたっけ……?」


 いつも通りと言うのは、改めて考え出すと何となく難しい。

「そうだな、とりあえず予定でも話すか」

「……うん、と言っても今日の予定は決まってるけど」

「だな、まずは王様に謁見して、ヘルの武器を取りに行く」


 この二つの用事はどうしても外せない。


 王様との謁見を無視すれば最悪この国を追放されることだってあり得るし、ヘルの武器がなければまともに国の外も出歩けない。この二つは必須マストだ。


「その後は、許可次第で遺跡だな」

「……うん、どこまで潜りたい?」

「この国に滞在する期間は長めになりそうだしな……まずは様子見が良い、日が沈む前には帰還したいと思うんだが」

「……了解、じゃあこっちでも気をつけておくね」


 上位の冒険者しか入れないような場所だ、一度の探索で攻略するのは無謀すぎる。例え急ぐ理由があったとしても、死んでしまっては意味がない。エスはそう考えて日帰りの探索を提案したのだった。

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