第三十二食 リードを握る手は強く

 衣素が観客席の目の前に飛んできた時、掌は真下にいるであろう衣素に向かって叫んだ。

「衣素さん! 仔霞の心を乱せば、あの鬼は弱るかもしれない。一瞬でもあいつの予想していないことが起これば、それが隙になるはずだ!」

 白属膳により生み出された連結獣の状態は、膳繊手の精神力に依存する。連結獣の数が増すほど、その扱いが難しく、多くの集中力を必要とする。それは、自分を取り囲む多くのモニターを念入りに監視しなければならないようなものだ。仔霞の場合、鬼は一体ではあるが、自身だけでなく他人の意識まで――それも大勢の意識を――巻き込んでいるのだから、些細なことでも奴にとって意外性のあることが生じれば、精神は不安定になるのではと、掌は考えた。

 思い返せば、ここまでの戦いの中で、仔霞は全てが予想できていることだと言わんばかりの表情をしていた。あの表情をなんとしてでも崩す。

「それなら――」

 衣素は思考時間を編集で切ったかのように、即座に回答した。

「アゲは? ここに連れてきてくれ――」

 衣素に言われ、アゲダママルが飛ばされていた方向――客席の後方に目を向ける。会場全体を砂が包む中、座席の下――気を失った隊員の足もとに彼が横たわっているのを見つけた。彼を抱えて衣素に手渡した。

 それから観客席を歩き回り、アゲダママルを探すフリをした。仔霞は自分のことを完全に見下していた。芝居をしているとは夢にも思わないだろう。


 ――言われっぱなしでは終われない。

 

 衣素の靴から飛び出したアゲダママルは、右手をかざして鬼の顔面に飛び込んだ。

 振り下ろされた鬼の手が、衣素の靴を払う。靴はステージの上に叩きつけられた。

「せっかくの夏だ。肝は冷えたか?」

 同時にアゲダママルの手から放たれた種属膳が、先ほどとは異なり、鬼の頭部をかき消していく。

「しまった――」

 仔霞が言い終わらないうちに、アゲダママルは彼の右手に噛みついた。

「ああ!」

 仔霞の表情が歪む。痛みで手一杯の彼の顔を拝めるのは爽快だった。

 首を失った鬼は前に倒れ込み、白属膳はバラバラと崩れ去っていった。

 

 観客席に転がっていた隊員たちが次々に意識を取り戻す。彼らは観客席を乗り越えると、中央のステージに駆け寄った。

「隊長!」

 隊員たちはアゲダママルを抱えると胴上げした。

「アゲダママル隊長!」

 掌は観客席から飛び降り、衣素と二人でしばらくその様子を眺めていた。

「最後の一撃はアゲに任せたけどさ。俺も頑張ってたよね?」

 衣素がしゃがみ込む。

「大丈夫だよ。勝てはしなかったけど……」

「勝てなかったのはお前も同じだろ!」

 掌もその場にしゃがみ込んだ。

 しばらくして、衣素が立ち上がった。

「まあいいや。さあ掌、負け犬の俺たちはさっさと帰るぞ」

 衣素はきびすを返す。

「衣素さん、いいのか――」

「隊長さんよお。そっちの闇堕ちした犬はあんたの好きにしな」

 衣素は背を向けたまま仔霞に言った。仔霞はステージ下に降りてきていた。

「冗談じゃありませんよ。あれを見たうえで言っているのですか? 隊員たちを繋ぎ止めておくことに関しては、私より彼のほうが上手うわてのようです。彼らが私を慕ってなどいないことは百も承知でしたが、ここまで露骨に彼を担がれては私に居場所はない。敗北を部下に目撃されてもなお、隊長の椅子に腰を下ろしていられるほど、私も図々しくはありませんしね」

「そうか」

「それから、あなたに人を見る目がないと言ったことも、一応お詫びしておきますよ」

 仔霞は掌の方を見て続けた。

「正直、油断しました。まさかあの状況で私を欺くことができるとは。食堂部に押し込めておくには惜しい存在かもわかりませんね」

 掌は何も言い返さなかった。

 衣素は出入り口の方へ歩いていく。掌も続いた。

「まったく、旅行できないわ、こんなとこ連れてこられるわで、今年はとんだ夏休みだな」

「旅行できないのはあんたのせいだろ」

「衣素!」

 アゲダママルがステージの下に降りてきた。

 衣素は何も言わない。立ち止まり、そしてまた歩き出した。

「あ! 残ってるカレーパン食わないと!」

 衣素は振り向かず、わざとらしく大声を出した。

「あれ? 衣素さん、カレーパン嫌なんじゃないの?」

「ああ。食べたくない。でも仕方ないだろ? 余っちゃってんだから、誰かが食べないと」

 掌は彼の意図に気づく。衣素に付き合うことにした。俺が食べようか、などと無粋なことは言わない。

「俺も腹減ってないからパスだな」

「犬の餌にでもするか……。しょうがないから、じゃんけんでもしよう。負けた奴が食べるってことで」

「おい、それじゃまるで罰ゲームじゃねえか。まあ、いいけど、俺はそれでも。それじゃあ――」

 後方からパタパタと足音が聞こえる。

「じゃんけん――」

 二人が強く握った拳を後方に差し出しながら振り返ると、小さな指でつくりあげたVサインが飛んできた。

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